「平時」と「有事」

 2019年12月に中国湖北省の武漢で、原因不明の肺炎患者が最初に報告されたという。翌月にはWHO*1がその肺炎が新型コロナウイルスによるものであると発表して以来1年余りが経つ。この間の委細は他書に譲るが、これで3度目の緊急事態宣言である。第1波から第3波へと波は高くなっている。これから迎える第4波がさらに高くなる地域は続出するだろう。波が右肩上がりなら、それはこれまでの施策や対応は間違っていたのではなければ、正しくなかったということなのではないか。政府がそう言えないのは、IOC*2に忖度してのことなのか。IOCが東京でのオリパラの中止や再延期を決断できないのは、NBC*3に足を向けて寝られないためなのか、誰か真相を教えてくれないか。
 思い出せば、全国の学校が卒業式を待たずに一斉休校となった。店頭にマスクが並び始めた頃、微妙な布マスクが届いた。特別定額給付金がもらえるというのでオンラインで申請したら、銀行口座が確認できないので申請書で再申請して欲しいと役所から連絡があった。政府の施策や行政の対応がゴテゴテなのか、それともチグハグなのかはここでは問うまい。しかし、古人はきっと「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と嘆いているに違いない。
 中国に追い抜かれたとは言え、日本は世界第3位の経済大国だという。日本は国民皆保険の国であり、その医療水準は世界一だという。日本の役所や公務員は海外と比べて、汚職や腐敗が少ないともいう。しかし、ワクチン摂取率や接種回数がOECD*4加盟37ヵ国中で最下位なのはなぜなのか。
 その分析や解説は専門家に委ねたいが、端的に言えば「平時」と「有事」の区別が付いていないからなのではないか。「有事」と聞いて眉をひそめるのであれば「緊急時」と言い換えよう。顔をしかめるのであれば「非常時」と置き換えよう。いずれにせよ「コロナとの戦い」が「有事」であれば、「平時」の手続や制度、判断や常識を通用させてはいけないはずである。その区別が付かないのは政府や行政だけではないだろう。かれらを責めているあなたもわたしも皆同類であると言えば、顰めた眉と蹙めた顔がますます強ばるのではないか。
 「有事」とは何も軍事や外交だけの話ではない。大規模な自然災害、深刻な原発事故、世界同時の金融危機。そして、感染症の世界的大流行など、あなたもわたしもすでに経験済みである。その時、政治家や専門家は「想定外の事態である」と釈明するが、それはかれらの慢心でなければ油断ではないのか。しかし、そういうあなたもわたしも喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのである。非は彼にあって我にはないものなのである。それが平時の論理であり人情である。そうであるなら、今後も想定外の「有事」に彼も我も右往左往し、政治も行政も紆余曲折することは避けられない。
 ではどうすればよいのか。短期的には、残念ながら痛い目に遭って、教訓や試行錯誤を積み重ねながら学んでいくしかないのだろう。これを「衝撃的学習(Shock Learning)*5」という。東日本大震災後に、防災や減災の重要性や必要性が広く認知されたように、多大な犠牲を払い、莫大な損害を被って初めて彼も我も学ぶということである。学校や教科書の中だけの知識だけでは立ち行かないということでもある。しかし、痛い目に遭う前にもっと学ぶことはできないのだろうか。それが長期的に必要となることである。少し頭出しをすれば、「初めに答えありき」の教育や学習から脱却し、「答えのない問題を皆で解いていく」学習やそれを促す教育が必要なのではないかということである。これについては、改めて考えたい。
 以上、これだけのことを言うために、新型コロナウイルス以下にご登場いただいた。

*1 World Hearth Organization、世界保健機関。
*2 International Olympic Committee、国際オリンピック委員会。
*3 National Broadcasting Company、IOCとの間で巨額の放映権契約を結んでいる。

*4 Organization for Economic Cooperation and Development、経済協力開発機構。
*5 J・W・ボトキン他『限界なき学習:ローマ・クラブ第6レポート』大來佐武郎(監訳)、ダイヤモンド社、1980年、15-19頁。

(2021年4月22日)