<Essay③>2ヵ月間のグランドツーリスト時代〔1987. 3~1987. 5〕

<目次>

1)中央アフリカからヨーロッパへ
2)夜行列車の中での盗難事件
3)ナポリでショーペロ
4)「南回り」でバンコク・香港へ

1)中央アフリカからヨーロッパへ

 在外公館派遣員としての大使館での2年間の任期が満了し、1987年3月26日にバンギを離れました。それから約2ヵ月間、日本にすぐには帰国せず、アフリカからヨーロッパ、そして、エジプトを経由して東南アジアへと「グランドツアー」*1 に出かけたのです。まず向かった先は、隣国のカメルーン最大の都市であるドゥアラ(Douala)という街でした。ドゥアラは港湾・商業都市であったことから、当時は日本の大手商社が駐在員事務所を開設していました。かれらが時折バンギを訪れては、大使館に立ち寄っていたのですが、後から分かったことは、ODA(政府開発援助)の案件情報がお目当てだったようです。そうとも知らず、駐在員が訪ねてくると、ときどき一緒に食事をしたりして懇意になった人も少なくないのですが、その中のM商事のMさんという方をドゥアラに訪ね、案内をしていただいたのです。その後は、さらに隣国のガボンの首都リーブルビルから西アフリカのコートジボワールのアビジャンへと周り、アビジャンからはスペインのマドリードに入りました。
 赴任2年目の夏に「健康管理休暇」の名目で1か月ほど、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイスなどを周っていたので、今回は南ヨーロッパを旅先としました。マドリードから中世の面影を色濃く残した城郭都市のトレド、イスラム文化を象徴するアルハンブラ宮殿のあるグラナダを経てバルセロナへ。そして、パリへ直行するタルゴ(Talgo)*2 という特急列車でパリに向かいました。パリに向かったのは、給与の振込先であった当時の東京銀行パリ支店の口座を解約することと、個人旅行向けのガイドブックの『地球の歩き方』*3 を購入するためでした。パリで用事を済ませると、南仏のマルセイユ、モナコ、そして、イタリア、ギリシャと訪ねましたが、旅の思い出として、いまだに記憶から離れないエピソードを2つ。

*1 「グランドツアー(Grand Tour)」とは、もともとは17世紀から18世紀にかけて、英国の貴族や富裕な中産階級(ジェントリー)の子弟教育の一環として始まった大陸旅行のこと。貴族やジェントルマンになるための総仕上げに、家庭教師や“お目付役”が付き添って、フランスやイタリアなどの異国を訪ねては、古典的な教養を身に付け、欧州社会の見聞を広げることを目的とした。
*2 「タルゴ(Talgo)」とはスペイン国有鉄道が開発した車両の名称であり、スペイン国内をはじめ、フランスやスイスの主要都市とを結んだ国際列車の名称でもある。スペインの鉄道は軌道(線路)の幅が広かったため、両国間で直通列車を運行することができなかった。しかし、車輪の間隔を軌間に合わせて調整できる装置が開発されたことによって、それが可能となった。当時の筆者はそんなことはつゆ知らず、バルセロナ・パリ間のタルゴに乗車した。現在でも、車両としてのタルゴは現役だが、高速鉄道(スペインのAVEやフランスのTGV)の運行開始により、バルセロナ・パリ間のタルゴは廃止されている。
*3 購入先はパリのジュンク堂だったか?『地球の歩き方』は1979年にダイヤモンド・ビッグ社から「ヨーロッパ」編と「アメリカ(・カナダ・メキシコ)」編が創刊。「1日3000円以内で、予約なしで旅する」ためのノウハウが詰まったガイドブックは、当時から「バックパッカーのバイブル」と称された。以来、若者の「海外一人旅」を応援し続けたその社会的貢献度は高く、筆者もこのガイドブックには何度も助けられてきた。日本人の海外旅行は、1964年の東京オリンピック・パラリンピック開催前の4月に、一人につき年1回、500ドル(1ドル=360円)の持ち出しを条件に自由化された。しかし、海外旅行は月給2万円の時代にハワイ旅行が数十万円という桁外れの高額商品であった。しかし、70年代に入るとニクソン・ショック(1971年)を機に円高ドル安が急速に進み、海外旅行も割安になっていった。これに伴い旅行各社が相次いでパックツアーを売り出し、日本人の海外旅行と言えば団体旅行が定番となっていく。そんな中で、個人での海外自由旅行を目指す若者の力強い味方となったのが『地球の歩き方』であった。なお、『地球の歩き方』は2019年に創刊40周年を迎えたが、コロナ禍の影響を受け、2021年1月にダイヤモンド・ビッグ社から学研プラス社に事業譲渡された。

『地球の歩き方(アメリカ編)』1980年版(初版)、1979年。
『地球の歩き方(ヨーロッパ編)』1980年版(初版)、1979年。
スペインの出国スタンプ(バルセロナ発パリ行きのタルゴ号内での出国審査の時のもの)

2)夜行列車の中での盗難事件

 スペインからイタリアまでの移動は鉄道を使いましたが、モナコからイタリアのヴェネチアへ夜行列車で移動した時、事件が起こりました。4人用のクシェット(簡易寝台)の下段を予約していましたが、夜行列車の中は盗難が多いと聞いていたので、旅行カバンを座席の支柱に鍵付きのワイヤーロープでくくり付けて眠りました。翌朝、車掌に起こされて目が覚めたのですが、気が付くとカバンがありませんでした。車掌が「付いて来てください」と言うので、後を追うと列車は途中駅に停車しており、ホームに降りると、そこに私のカバンがありました。そばに警官がいて「あなたのものか?」と尋ねるので、「そうです」と答えました。続けて、後ろ手にされて立たされている男を指して「あの男を知っているか?」と尋ねるので「知りません」と答えると、警官はわたしのパスポートを確認すると、カバンを引き渡してくれました。当時も事情がよく分からなかったのですが、どうやら車内で盗まれ、犯人である「あの男」が駅で降りて逃げようとしたところを、偶然捕まえたということのようでした。ワイヤーロープでくくり付けたとは言え、プロの手にかかれば音も立てずに簡単に盗まれてしまうということなのでしょう。まさか実際に盗難に遭うとは思っていませんでしたが、旅行通に言わせると、車内で盗まれたモノがそのまま戻ってくることは滅多にないそうなので、盗まれた方からすれば“不幸中の大吉”ですが、盗んだ方からすれば“窃盗中の大凶”ということになります。

3)ナポリでショーペロ

 もうひとつのエピソードは、イタリアのローマから日帰りでナポリ沖のカプリ島にある「青の洞窟」を見に行った帰りのことです。ローマからはカプリ島への観光ツアーが数多く出ていましたが、行程が難しくなかったので、その時は自分で移動しました。翌日はギリシャへ空路で移動する日だったので、あまり遅くならないうちにローマに帰ろうと、ナポリの駅まで戻ると、改札口周辺は人だかりの山でした。何があったのかとウロウロしていると、「ショーペロ!ショーペロ!」という声があちこちから聞こえてきました。近くにいた人に尋ねると「ショーペロ(sciopero)」とはストライキの意味でした。今夜はもう鉄道が動かないことが分かりましたが、今夜中にローマに戻らないと、明日のギリシャ行きのフライトに乗れません。そこでローマまでの高速バスがあるのではないかと思い、駅周辺を探してはみたのですが、あいにく高速バスもショーペロでした。そうなると残る選択肢はタクシーかと考えましたが、ローマまでは200キロ以上(直線で東京から浜松に相当)の距離です。タクシーを普通に使ったらとんでもない金額になることが想像できますが、そもそもそんな現金の持ち合わせはありませんでした。
 どうしようかと思いあぐねていると、人の弱みにつけ込んで片言の英語で声をかけてくるタクシーの運転手が、ローマまでは特別料金だということで、これまた法外な金額を吹っ掛けてきました。押し問答を続けましたが、どう考えてもこちらの分が悪いことは明白でした。ほんとに稼ぎたいのであれば最後は運転手も客との妥協点を見つけるはずですが、そうしなかったのは最初からローマまで行くつもりはなかったということでしょう。駆け引きに弱い日本人の足元を見て、非常識な言い値が通るかどうか半分ふざけていたのでしょう。そうした価格交渉に疲れてきたとき、運転手とは身なりや物腰の異なる男性が話しかけてきました。彼の言い分は、①自分はタクシーの運転手ではない、②今からローマへ自分のクルマで帰るところである、③ガソリン代と高速代を払ってくれれば乗せてあげる、ということでした。結局、信頼できそうな印象だったので、彼の条件を飲んで彼のクルマに乗り込みました。冷静に考えれば、見知らぬ土地で見知らぬ人の誘いに乗ってクルマに乗り込む行為や判断はかなり危険なことでした。こちらも今夜中にローマに帰る必要がなければ駅周辺のホテルに泊まって、翌日に市内観光でも楽しめば済んだ話でしたが、帰らなければいけなかったので、背に腹は代えられませんでした。結局、ナポリの駅を発ったのは真夜中になっていましたが、最悪、朝までにローマのホテルに戻ることができればよかったので、これでひと安心でした。ガソリン代や高速代も日本円で1万円程度だったはずなので、タクシーの“特別料金”に比べれば格安でした。
 車の中で何を話したのか覚えていませんが、たしか彼は仕事でナボリに来て、ローマに戻ろうとしたところ、道端で運転手に囲まれている私の様子が気になって声をかけたようです。親切心から声をかけてくれたのかも知れませんが、しっかり片道分のガソリン代と高速代の実費は請求しているので、彼としてもビジネスを有利に成立させたことになります。いずれにせよ、話はこれで終わりませんでした。クルマは途中まで順調に走っていました。ローマの中央駅近くのホテルまで送ってくれる話だったのですが、いざローマの中心地が近くなって高速道路を降りてしばらくすると、エンジンが停まってしまったのです。原因がわからず本人もどうすることもできず、すぐには動き出しそうにありませんでした。あたりは夜明け前で暗く、人通りもなく、車も通りません。結局、「近くから中央駅行きのバスが出ているから、急ぐならバスで行ってくれ」ということで、彼とは別れました。バス停までの行き方を聞いたのですが、初めての土地に地図もなく放り出されて、道に迷いました。やっとの思いでバス停を見つけた頃には空が明るくなっていましたが、始発のバスまではかなり時間があったように記憶しています。ようやくバスに乗ると、ローマ中央駅まではそれほど時間はかかりませんでした。
 期せずしてなかなかスリリングな「青の洞窟」ツアーとなりましたが、ホテルに戻ると、チェックアウトまで一休みしてから、ギリシャに向けてホテルを後にしました。ギリシャでは、アテネ市内の古代ギリシャの遺跡群や修道院で有名なメテオラをはじめ、エーゲ海のクレタ島やミコノス島を訪ねた後、アテネから空路でエジプトへ入りました。エジプトでもカイロ近郊のピラミッドやスフィンクス、そしてナイル川を南下してルクソールの古代遺跡群を訪ねましたが、さすがに文明史に残る遺跡群は、いずれも迫力に富んだ実に印象的な建造物でした。

4)「南回り」でバンコク・香港へ

 当時は日本航空がバンコク経由の「南回り」*4でカイロまでの路線を運行していたので、カイロからバンコクへ飛びました。この時、カイロの空港でチェックインしようとすると、どうやらオーバーブッキング(過剰予約)だったようで予約していたエコノミークラスから生まれて初めてのファーストクラスへとアップグレードされたことは嬉しい驚きでした。当時、学生時代を過ごした山手学舎の後輩が同じく派遣員としてベトナムの日本大使館に赴任していたので、バンコクからハノイを往復してから、香港を経由して日本に帰国しました。当時のパスポートには「帰国23.MAY.1987」とあります。
 それぞれの旅先はいずれも初めて訪れた国だったので、基本的には代表的な観光地をめぐりましたが、同じヨーロッパの国々でも、それぞれの「お国柄」の違いを感じたり、「見聞を広める」という意味では貴重なグランドツアーでした。バンギではいろいろと厄介な場面を切り抜け、百戦錬磨のつもりでしたが、バンギでは遭遇できない出来事を旅先でまた新たに経験できたことは、それはそれで「お金では買えない」プライスレスな経験だったと言えるでしょう。また、バンコクや香港などは初めての東南アジアでしたが、現在とは異なり、中心街にも屋台や小さな飲食店が立ち並んでいて、“アジアらしい” 街並みや雰囲気を醸し出していました。しかし、そうした屋台や飲食店は地下街やショッピングセンターの中のフードコートのテナントとなって久しいものとなっており、今となれば一人の観光客としては少し寂しい気がしています。

*4 「南回り」や「北回り」という言葉を使わなくなって久しい。「北回り」が普通のことになったからである。米ソの冷戦時代、日本から欧州に向かう際に、最短距離となる旧ソ連のシベリア上空を飛行することができなかった。また、当時は旅客機の航続距離が短かったため、日本往復の欧州便は米国アラスカ州のアンカレッジを経由する「北回り(北極ルート)」か、東南アジアや南アジアなどを経由する「南回り」のどちらかであった。しかし、1989年の「ベルリンの壁」崩壊を機に、90年代に入るとシベリア上空が開放され、それまで欧州線を独占していた日本航空(JL)に加えて全日空(NH)も参入して、この「シベリアルート」が欧州線の主流となった。しかし、80年代から増加した海外を一人旅する若者たちにとって、「北回り」のチケットはまだまだ高嶺の花で、タイ航空(TG)、インド航空(AI)、パキスタン航空(PK)、エジプト航空(MS)などの「南回り」の格安チケットを手に、バンコクやニューデリー、カラチやカイロなどを経由して欧州に向かう者が多かった。ちなみに、さらに一昔前の欧州に向かうもう1つの方法としては、新潟からナホトカまで船で渡り、ウラジオストクからシベリア鉄道でモスクワ、そして欧州を目指す「陸のシベリアルート」があった。

地球のことば(29):「原子力は要らねえ 危ねえ 欲しくない」

図1:RCサクセションのアルバム『カバーズ』の表紙

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ 誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い
それでもTVは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねぇ 根拠がねぇ
これが最後のサマータイム・ブルース

電力は余ってる 要らねえ
欲しくない
原子力は要らねえ 危ねえ
欲しくない

忌野清志郎(Imawano Kiyoshiro アーティスト 日本 1951-2009)
Original Source: Eddie Cochran & Jerry Capehart, “Summertime Blues,” Liberty Records, 1958.
出典:忌野清志郎「サマータイム・ブルース」The RC Succession『カバーズ』キティ・レコード、1988年(ユニバーサル・レコード、2005年)。

<コメント>
 昔の話で恐縮だが、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、以下、清志郎)という、“奇抜で派手、鋭利で正真の” ロックンローラーがいた*1。かれが率いたロックバンド「RCサクセション」のアルバム『カバーズ(Covers)』(1988年、図1)は、有名な洋楽のヒット曲に独自な日本語詞を付けたカバーアルバムで、これに収録された楽曲はいずれも平和・反戦・反核といったメッセージが込められていた。本曲もその中の1曲で、歌詞を見れば一目瞭然、強烈な反原発ソングとなっていた。そのためか、このアルバムは1988年8月6日の広島「原爆の日」に発売が予定されていたものの、直前になってレコード会社から発売中止が発表されるという、いわく付きのアルバムとなった*2
 そのレコード会社とは当時の東芝EMIといい、その親会社は日本有数の重電機器メーカーであり、三大原発メーカーのひとつの東芝であったことから何らかの圧力があったのではないかと音楽業界やメディアでは騒然となった。結局、アルバムは当時のキティレコードから終戦記念日の8月15日に発売となり、話題が話題を呼んでオリコンで1位を獲得するに至ったが、話はこれだけでは済まなかった。FM放送局のFM東京とその系列局が『カバーズ』収録曲の放送を自粛したのである。当時は今のようにインターネットで音楽が配信される時代ではなかった。音楽CDが普及し始めてまだ数年という時期で、J-WAVEも開局前であり、筆者を含めて当時の若者にとってのFM放送、とくにFM東京は洋楽を含む音楽の貴重な発信源のひとつであった*3
 こうした動向に対して、清志郎は正体バレバレの覆面バンド「ザ・タイマーズ」を結成し、ゲリラ的な音楽活動を展開 *4 。そして、1989年10月にフジテレビの音楽番組の生放送に出演した際に、予定していた楽曲をFM東京を罵倒する楽曲に急遽変更し、放送禁止用語を連発するという確信犯的な放送事故を引き起こした *5
 この「事件」の経緯や顛末は他書に譲るが、テレビ業界の常識や「掟」を唾棄し、相応の厳罰や制裁を覚悟してまで、清志郎をここまで突き動かし、駆り立てたものとは何だろう。そこには「ロックンローラー」としての譲れない何か、表現者としての引くに引けないこだわりがあったのだろう。それを「ロック魂」という一言で表現することには気が引けてしまう。とは言え、資金力や放送権という巨大な「権力(パワー)」を誇る組織やスポンサーに異議を申し立てることが、日本の音楽業界や放送業界においては “反則” や “違法行為” となると知りつつ、あのような “暴挙” に出たことは、清志郎ならではの反骨精神の成せる技であった。と同時に、こうした清志郎の態度は平和論でいうところの「市民的不服従」*6 であると言えば過大評価との誹りを免れないだろうか。
 今の時代、自分が感じた疑問や違和感を周囲に流されずに言葉にすることがますます難しくなっている。ましてや、権力や組織に反発し抵抗することは危険であり、それよりも忖度し迎合する方がはるかに安全である。当時も今と大差がなかったとすれば、清志郎の怒りや疑いの矛先は、レコード会社や放送局を超えて、時代のそうした空気や圧力に向けられていたのではないか。その空気や圧力は現在に至るまで、ますます充満し膨張している。
 アルバム『カバーズ』が発表された1988年という年は、チェルノブイリ原発事故から2年後であり、日本経済は「バブル景気」の最中にあり、「ベルリンの壁」崩壊の前年にあたっている。感度や嗅覚が「ビンビン」*7 な時代の預言者だった清志郎にしてみれば、何かモノを言わないわけにはいかなかったに違いない。RCサクセションは90年代に入ると活動を停止。それ以降、清志郎はいくつものユニットを結成して音楽活動を継続するが、その間に病魔が忍び寄っていたのだろう。2008年5月2日に帰らぬ人(享年58歳)となっている。この年は本曲「サマータイム・ブルース」の発表から20年目であり、その3年後に「安全な」はずの福島第一原子力発電所で重篤な事故が起きている。
 今年2021年は忌野清志郎の生誕70周年であり、命日の5月2日は十三回忌となる。コロナ禍が世界を覆う今、清志郎が生きていれば、どんな曲を聴かせてくれたのだろうか。
<追記>
 なお、上記で紹介したRCサクセションの「サマータイム・ブルース」のほか、「ラブ・ミー・テンダー」や「君が代」などの当時の楽曲は、公式ミュージックビデオが公開されていないので、動画サイトを各自で検索しての視聴をお薦めしたい。

*1 「ロックンローラー」という言葉も今はもう死語かも知れないが、清志郎の“影武者”だったZERRYは、次のように歌っている。
   ♪どうせロックは ありゃしねえ
    演歌やジャリタレ ばかりじゃないか
    俺はしがないロックンローラー
    義理も未練もありゃしねえ
    ・・・
    気がつきゃかるいサウンドばっかりじゃござんせんか
    何をうたってんだか よくわかんねぇ 耳障りのいい
    差し障りのねぇようなことばっかりで
    右の耳から左の耳へと抜けていくような歌ばっかりだぁ
    それでロックと言えんのか
      出典:ZERRY「ロックン仁義」ザ・タイマーズ『復活!! The Timers』EMIミュージック・ジャパン、1995年=2006年。
      Official Music Video:TheTimersVEVO♪ ‘ロックン正義‘ YouTube)
*2 反核をテーマとしたシングル第1弾の「ラブ・ミー・テンダー」も発売中止となった。そのほかにも1999年に自主制作されたアルバム『冬の十字架』も当初予定してたポリドールが発売を中止。その理由は収録されたパンク調の「君が代」が問題視されたからだという。折しも、この時期の国会や世論は「日の丸・君が代法案」で揺れており、この楽曲は清志郎からの問題提起であった。
*3 当時の音楽番組と言えば、FM東京では「ポップスベスト10」や「ジェット・ストリーム(Jet Stream)」(機長:城達也)などの洋楽の長寿番組があったほか、米軍のFEN(極東放送網、現在のAFN〔アメリカ軍放送網〕)が「American Top 40」(DJ: Casey Kasem)を放送していた。そのほか、テレビの洋楽番組と言えば、1981年にテレビ朝日で放送が開始された「ベストヒットUSA」(司会:小林克也)があった。なお、J-WAVEの放送開始は1988年10月である。

*4 1988年11月、日本経済が「バブル景気」に沸き立ち、昭和天皇の容態が急変して「自粛」ムードが拡がる中、ザ・タイマーズは横浜国立大学と横浜市立大学の学園祭でゲリラライブを決行。「サマータイム・ブルース」に対する批判へのアンサーソングとして皮肉と諧謔に満ちた「原発賛成音頭」を披露した。その模様が『ザ・タイマーズ スペシャル・エディション』(ザ・タイマーズ、USMジャパン/ユニバーサル・ミュージック、2016年)のDISC3(DVD)に収録されている。
*5 その番組は「ヒットスタジオR&N」(司会:古舘伊知郎)であった。「事件」の直接の原因は、清志郎が作詞した別のアーティストとの楽曲がやはりFM東京で放送禁止になったことだという。なお、テレビで罵倒されたFM東京は翌年にステーションネーム(ラジオ局の通称)を「TOKYO FM」に改称している。(追記:なお、司会者だった古舘氏が当時をふりかえったコメントがYouTube(以下参照)で公開されている)
*6 「市民的不服従」とは、「守るべき法律が個人の良心や権利に照らしてどうしても受け入れられない場合には、たとえ法を犯すことになっても、自分が正しいと思うように行動することで、その法律こそが不当であることを明らかにしようとする」非暴力的な態度や行動を意味する。(出典:西あい・湯本浩之『グローバル時代の「開発」を考える』明石書店、2017年、174-176頁)
*7 1980年発売のシングル曲で、RCサクセションの代表曲のひとつとなった「雨上がりの夜空に」の中に「バッテリーはビンビンだぜ」という歌詞がある。

<参考資料>
片岡たまき「音楽偉人伝 第11回 忌野清志郎(RC時代後編)すべてを“歌”にした男」『音楽ナタリー』ナターシャ、2019年6月21日(最終閲覧日:2021年5月3日)。
ザ・タイマーズ『ザ・タイマーズ スペシャル・エディション』(USMジャパン/ユニバーサル・ミュージック、2016年)収録の高橋Rock Me Baby氏のライナーノーツ。
新田樹「今日が命日…忌野清志郎の『表現の自由を奪う圧力』との闘い、そして憲法9条への美しすぎるメッセージ」『LITERA』ロストニュース 、2016年5月2日(最終閲覧日:2021年5月3日)。
萩原正人「音楽偉人伝 第12回 忌野清志郎(ソロ編)夢助よ、いずこへ」『音楽ナタリー』ナターシャ、2019年7月18日(最終閲覧日:2021年5月3日)。
古舘伊知郎「放送禁止用語連発!忌野清志郎さんの忘れられない話。タイマーズで起こした夜ヒットでの放送事故の裏側」古舘伊知郎チャンネル、2021年6月7日、YouTube。
(匿名記事)「THE TIMERS、横浜国大・市大でのゲリラライブを公開!」『rockinon.com』ロッキング・オン、2016年11月10日(最終閲覧日:2021年5月3日)。
(2021年5月3日、追記:2021年12月6日)