<Essay④>セレンディップなモラトリアム時代(Part 1)〔1987. 6 ~ 12〕

<目次>
1)はじめに
2)YWCAとオキナワ
3)「地域の国際化」セミナーと「開発教育全国集会」
4)東京山手YMCAの「国際理解講座」
5)ICYEの帰国生活動

   ※コラム「グローバル人材とICYE」
6)「KISコーナー」と「アジア市民フォーラム」

   ※コラム「民際外交と開発教育」

1)はじめに

 1987年の5月に帰国し、NGO業界に仕事を得るまでの1年間は、今思えばあっと言う間に過ぎ去った時期でしたが、その後の自分の仕事や人生を決定づけたという点ではとても重要で濃密な時期でもありました。この時期を「セレンディップなモラトリアム時代」と名づけたのには、それなりの理由があるのですが、その説明は最後にして、まずはこの1年の出来事を思い出せる範囲で振り返っていくことにします。
 5月下旬に帰国してから、実家のある神奈川県の真鶴でしばらく羽根を休めていましたが、6月に入ると、東京へ出かけては、学生時代に関わっていたYMCAやICYEの関係者や友人たちに帰国の挨拶をして回りました。中には、アフリカの話をして欲しいということで「帰国報告会」のような場を設けてくれることもありました。そうした依頼には「自分が知ってしまったことは伝えていかなければ」というやや前のめりの気構えで積極的に応えていたように思います。そして、夏が近づいてくると、過去の繋がりや新たな出会いからいろいろな活動に関わるようになっていきました。

2)YWCAと沖縄 

 東京YMCAのキャンプリーダー仲間のひとりであった吉◯◯司氏とは、帰国後も連絡を取り合っていました。かれが東京・調布の国領にある東京YWCA(キリスト教女子青年会)の地域センターにも学生時代から関わっていた関係で、リーダー仲間や関係者を集めて同センターで帰国報告会の場を用意してくれました。それを機にセンターに出入りするようになりましたが、そうした中で出会ったのが、当時、国領センターの幹事(スタッフ)だった中本かほる氏 *1 や同センターで「地域と世界を結ぶ」という企画の運営に関わっていた福澤郁文氏 *2 でした。
 帰国報告会の参加者の中には、日本YWCAの幹事だった青木理恵子氏*3もいましたが、ある時に青木氏から「沖縄に行ってみるかい(会?)」と、沖縄で開催される研修プログラムに誘われ、吉◯氏とともに沖縄を初めて訪ねることとなりました。そのプログラムとは日本YWCAも加盟する中央青少年団体連絡協議会(中青連)が主催する「21世紀を担う青少年の集い」*4 というもので、この「集い」には、YWCAをはじめ、日本各地の青少年団体に関わる青年と東南アジアから招聘された青年が参加していました(図1および図2)。
 4泊5日の日程のうち中3日はグループ別のプログラムとなっており、「永遠の平和を築くために」をテーマとして沖縄の戦跡や米軍基地を訪ねるグループに参加しました。当時の資料を見ると、3日間のプログラムは1日目は南部戦跡(沖縄陸軍病院跡、第一・第三外科壕、荒崎海岸、韓国人慰霊塔、平和祈念資料館、糸数壕など)の見学、2日目は嘉手納基地とこれに隣接する読谷(よみたん)村の米軍施設やチビチリガマなどの戦跡の見学、3日目は講演会とあります。この講演会とは、沖縄大学と出版社の高文研が共催していた「’87沖縄セミナー:沖縄戦と基地問題を考える」というものでした。これら3日間のプログラムを通じて今でも記憶に残るのは、嘉手納基地で体験した、まさに耳をつんざく戦闘機の爆音であり、ガマの中を漂う声なき声や音なき音であり、そして、宮城喜久子氏(元ひめゆり学徒隊)や糸数慶子氏(平和ガイド) *5 をはじめ、山内徳信氏(読谷村長)や新崎盛暉氏(沖縄大学学長)*6 、そして知花昌一氏(平和運動家) *7 らの平和を願う力強くもどこか優しい肉声でした。そして、3日間のフィールドワークは、沖縄が直面してきた平和・人権・環境そして開発という問題の存在をまざまざと伝えてきました。しかし、「沖縄」のことを当時はほとんど何も知らなかったわたしは、「沖縄」が投げかけてくる「問い」をどう受け止めればよいのか分かりませんでした。問題は海の向こうの途上国にあるだけでなく、自らが暮らす日本の国内にもあることを、目に見え耳に聞こえる形で実感したのはこの時が初めてでした。それほど、この沖縄訪問は、わたしにとってある意味で衝撃的な機会となったのです。
 なお、沖縄でのプログラム終了後、当時、貴重な珊瑚礁を埋め立てての新空港の建設計画に反対する住民運動が展開されていた石垣島の白保地区を訪ねたことも併せて記しておきます。

図3:福澤郁文氏の作品集
図2:同「参加のしおり」
図1:「21を担う青少年の集い」の「パンフレット」

  

*1 中本かおる氏はその後、シャプラニール=市民による海外協力の会の東京事務所スタッフを経て、福岡YWCAの常務理事や代表理事を歴任。東洋大学大学院文学研究科に進まれ、博士論文を提出されている。〔参考文献〕中本かほる「YWCAによる女子青年教育の研究:1920~30年代の東京YWCAの事業を中心に」東洋大学、博士論文、2018年。
*2 福澤郁文氏は、シャプラニールの前身であるヘルプ・バングラデシュ・コミティ(HBC)の創立(1972年)メンバーのひとり。シャプラニール代表のほか、国際協力NGOセンターや開発教育協会の理事を歴任。グラフィック・デザイナーとして、NGOの広報資料や開発教育教材等の企画・デザインを多数手がけてこられた。開発教育協会のロゴマークも福澤氏によるもの。〔参考文献〕福澤郁文『福澤郁文&design FF: Graphic design and Art direction』デザインFF,1995年、図3。
*3 青木理恵子氏は日本YWCAの後、京都YWCAに移り、多文化共生社会の実現を目指して、地域の外国籍住民の支援活動に取り組むAPT(Asian People Together)の立ち上げに尽力された。2002年には外国籍のHIV陽性者を支援することを目的とするNPO法人CHARM(移住者の健康と権利の実現を支援する会)を設立し、現在も事務局長として活動されている。
*4 1983年にアセアン諸国を歴訪中の中曽根康弘首相が「21世紀のための友情計画」を発表。これに基づき、1984年から開始された日本とアセアン諸国の青年が参加する国際交流プログラムとして実施された。
*5 南部戦跡や読谷村の見学には、戦跡ツアーの平和ガイドの草分けとして著名な糸数慶子氏(後に沖縄県議会議員や参議院議員)に同行いただいた。また、元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子氏(後に沖縄県立平和祈念資料館副館長)にも沖縄陸軍病院の南風原壕群をはじめ、米軍に追い詰められた多くの住民やひめゆり学徒隊が最期を遂げた荒崎海岸(沖縄本島最南端)を案内していただいた。なお、宮城氏は荒崎海岸で九死に一生を得て奇跡的に生き延びた数少ない生存者の一人である。〔参考文献〕宮城喜久子『ひめゆりの少女:十六歳の戦場』高文研、1995年、(図4)。糸数慶子『沖縄の風よ 薫れ:「平和ガイド」ひとすじの道』高文研、2013年、(図5)。
*6 当時、読谷村長だった山内徳信氏は、沖縄県の高校の社会科教員を経て、1970年代から読谷村長を6期にわたって歴任。在任中に、読谷村の役場や議会を米軍基地の敷地内に移設したり、同村面積の73%を占めた米軍基地を47%まで減らすなど、反戦・反基地運動の先頭に立って取り組んだ。東京出身の新崎盛暉氏は都庁勤務のかたわら、英文学者の中野好夫氏が主宰する「沖縄資料センター」で戦後資料の収集分析などの活動に従事。70年代に沖縄大学に赴任し、学長も務めた。国家権力に抗う民衆の目線から戦後の沖縄史を問い続け、その問題の本質を「構造的沖縄差別」という言葉で表現した。〔参考文献〕山内徳信『憲法を実践する村:沖縄・読谷村長奮闘記』明石書店、2001年、(図6)。新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』岩波新書、2016年、(図7)。中野好夫・新崎盛暉『戦後沖縄史』岩波新書、1976年、(図8)。 
*7 この年(1987年)、沖縄では国民体育大会(海邦国体)の開催が迫り、昭和天皇の名代としての皇太子夫妻(現上皇夫妻)の訪問をめぐって沖縄の世論は激しく揺れていた。そうした中で、87年10月、読谷村が会場となったソフトボール競技の開始式で国旗掲揚台から日の丸が引き下ろされ焼き捨てられるという事件が起きた。事件当日の夜、弁護士に付き添われて警察に出頭したのが知花昌一氏(平和のための読谷村実行委員会代表)であった。この事件の前後の経緯や委細については他書に譲るが、こうした行動を起こしてまで知花氏が提起したかった願いや問いとは何であったのか、それは現在にも引き継がれていないだろうか。〔参考文献〕知花昌一『焼きすてられた日の丸:基地の島・沖縄読谷から』新泉社、1988年(増補版、社会批評社、1996年、図9)。

図9:知花昌一『焼きすてられた日の丸:基地の島・沖縄読谷から』新泉社、1988年(増補版、社会批評社、1996年)。
図8:中野好夫・新崎盛暉『戦後沖縄史』岩波新書、1976年。
図7:新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』岩波新書、2016年。
図6:山内徳信『憲法を実践する村:沖縄・読谷村長奮闘記』明石書店、2001年。
図5:糸数慶子『沖縄の風よ 薫れ:「平和ガイド」ひとすじの道』高文研、2013年。
図4:宮城喜久子『ひめゆりの少女:十六歳の戦場』高文研、1995年。

3)「地域の国際化」セミナーと「開発教育全国集会」

 学生時代にお世話になった東京YMCAの関係者に挨拶回りをしていた時、知り合いの主事たちから口々に「これからどうするの」と今後の身の振り方を心配されました。当の本人はあまり気にしていなかったのですが、中には真剣に先行きを案じていただいた方もいて、「まだ考えていません云々」と飄々と答えていると、ぜひ訪ねて相談してみるとよいという方々の名前を紹介されました。帰国早々、就職のことまで頭が回りませんでしたが、とにかく会いに行くだけ行ってみようということで、勧められるままに会いに行きました。
 その一人が長く世界YMCA同盟で難民事業を担当され、日本に帰国されて間もなかった宮○○雄氏でした*8。東京・西早稲田に事務所があった日本YMCA同盟に宮○氏を訪ねると、アフリカで経験してきたこと、その経験を生かして何か仕事ができないかと考えていること、できれば自分の経験を日本社会の中で伝えていくような仕事をしたいというようなことを、その場で話したのではないかと記憶しています。自分が予めそう考えていたというよりも、宮○氏の問いに対してそのよう言葉がつい口から出てきたという方が正しいのですが、宮○氏は「これからそういう仕事が重要になってくるが、今のところ職員を雇うことができるほどの組織はない」という主旨のことを話されたと記憶しています。もしかするとYMCAや開発教育協議会のことを念頭に置かれてのことだったのかも知れません。最後に、宮○氏から厚木で開かれるセミナーに一緒に行かないかと誘われ、また8月に神戸で開催される開発教育全国研究集会に参加してみるよう勧められました。
 そのセミナーとは「地域の国際化セミナー」といい、講演者はチャドウィック・アルジャー氏(米国・オハイオ州立大学教授)とポール・ファン・トゥンゲレン氏(オランダ・開発協力情報全国委員会(NCO)副代表)でした(図10)。まったくの偶然だったのですが、この時、アルジャー氏の『地域の国際化:国家関係論を超えて』(日本評論社、1987年、図11)という著書が出版されたばかりで、新宿の紀伊國屋書店でこれをたまたま見つけて購入していたのです。アルジャー氏はオハイオ州立大学の教授で、大学のあるコロンバスはわたしが1年間滞在していた街だったことに何かの巡り合わせを感じました。その本の中では「世界の中のコロンバス、コロンバスの中の世界」というプロジェクトのことや、今ではもはや言い古された観がありますが、「地球規模で考え地域で行動する(Think Globally, Act Locally)」という概念などが紹介されていて新鮮でした。トゥンゲレン氏が所属するNCOは、英国と並んで開発教育の先進国であるオランダで、各地の開発教育センターをはじめ、開発教育を実施する自治体やNGOなどを支援する政府機関であるということを後から知ったのですが、そんなことはまったく知らぬままにこのセミナーに参加したのです。いずれにせよ、このセミナーは神奈川県国際交流協会(当時)を事務局に、県内で国際交流や国際理解の活動に関わっていた人たちが実行委員会を立ち上げて企画されたものでしたが、その仕掛け人はアルジャー氏の著作を翻訳していた吉○○○郎氏でした。吉○氏は当時、アイディア・ハウスを主宰して、NGO活動や国際理解教育の普及活動に取り組まれていました*9
 神戸で開催された開発教育全国集会は2日間の日程で、プログラムは「研究・実践事例発表」と課題別ワークショップというシンプルなものでした(図12)。しかし、その事例発表では臼井香里氏(開発教育を考える会) *10 が開発教育教材「地球の仲間たち」(図11)を使った授業実践を、また神戸の高校で教員をされていた大津和子氏が「一本のバナナから」*11 という授業実践を報告していました(図13)。これらの実践はその後、開発教育の関係者の間で広く知られていくことになります。分科会は「地球の環境問題をテーマに教育活動をどのように実践するか:開発問題との関わりを中心として」に参加、その時に司会をされていたのが雨森孝悦氏(アジア・コミュニティ・トラスト)でした*12(図14)。
 そして、この大会の事務局を担当していたのが、当時神戸YMCAのスタッフだった梅村尚久氏(故人)でした。これも後から分かったことですが、彼もICYEの交換生としてメキシコに滞在。その後、神戸YMCAから旅行代理店の(株)マイチケット(現在の(株)オルタナティブツアー)に転職。さらにスペイン語で「星」を意味する「エストレージャ」という旅行代理店を東京・飯田橋で開業しました。今でこそ、NGOのスタディツアーなどを取り扱う旅行代理店は増えましたが、マイチケットもエストレージャもNGOが企画するスタディツアーに必要な旅行業務やNGO関係者の海外出張の際の航空券の手配などを引き受け、旅行業の立場からNGO活動を側面から支援していたという点ではその草分け的な存在であったと言えるでしょう。筆者もNGO活動推進センターに入職してからは、海外出張等で必要な航空券の手配を梅村氏に依頼するようになりました。
 東京で旅行代理店を切り盛りするかたわら、梅村氏は中南米の人権問題や貧困問題などに取り組む日本ラテンアメリカ協力ネットワーク(RECOM)というNGOの立ち上げ(1992年)に尽力するとともに、その事務局長や代表を歴任しましたが、2004年に若くして急逝されました。その後、梅村氏の遺志を継いで「梅村記念基金」が発足。2020年には一般社団法人梅村尚久記念多文化連帯館が設立され、兵庫県尼崎のオルタナティブツアーのオフィス横に「CASA de UME(ウメさんの家)」がオープンしています。

図12:第5回「開発教育全国研究集会」開催要項
図11:C・アルジャー『地域からの国際化』日本評論社、1987年。
図10:「地域の国際化セミナー」当日資料

*8 面会したのは87年6月だと記憶しますが、この時、宮○氏は日本YMCA同盟の総主事や当時の開発教育協議会の代表理事に就任される直前だったか就任直後だったかというタイミングでした。
*9 吉○氏はその後、1989年に国際理解教育・資料情報センター(ERIC、現在の(NPO)国際理解教育センター)を設立。ERICは、90年代に海外から教育関係者を招いての「グローバル・セミナー」を毎年開催。1991年に翻訳出版した『ワールド・スタディーズ:学びかた・教えかたハンドブック』(S・フィッシャー&D・ヒックス、めこん、1991年)は、それまでの日本の国際理解教育とは異なるその概念や教育論を提起するとともに、参加型学習の考え方や方法論を広く紹介して、当時の開発教育や人権教育の関係者らにも多くの示唆や刺激を提供した。
*10 臼井氏は、青年海外協力隊として中米エルサルバドルで活動。帰国後、同隊員経験者らとともに「開発教育を考える会」を創設。自身は都内の中学校の美術教師として開発教育の実践に取り組まれ、開発教育協会の理事や副代表理事を歴任された。同会が制作したスライド教材『地球の仲間たち』は、フォトランゲージ版『地球の仲間たち』、そして、絵本『地球の仲間たち』へと発展している。〔参考文献〕開発教育を考える会(編)『地球の仲間たち:スリランカ/ニジェール』ひだまり舎、2019年、(図13)。開発教育を考える会(編)『地球の仲間たち:コロンビア/ネパール』ひだまり舎、2021年。
*11 この授業実践を紹介した『社会科=1本のバナナから』が1987年に国土社から出版された。〔参考文献〕大津和子『社会科=一本のバナナから』国土社、1987年、(図14)。
*12 雨森氏は、開発教育協議会第4代事務局長のほか、(財)日本国際交流センター・プログラムオフィサー、(財)とよなか国際交流協会事務局長を歴任されている。現在は日本社会福祉大学教授。第5回開発教育全国集会については、開発教育協議会の第4代代表理事を務められた赤石和則氏が報告しているので、以下を参照されたい。〔参考図書〕キャサリーン・コーフィールド(雨森孝悦訳)『熱帯林で私がみたこと』築地書房、1990年、(図15)。赤石和則「第5回開発教育全国研究集会から」『開発教育』No. 12、開発教育協議会、1988年、38-43頁、(図16)。

図16:開発教育協議会編『開発教育』No.12、1988年。
図15:C・コーフィールド(雨森孝悦訳)『熱帯林で私がみたこと』築地書館、1990年。
図14:大津和子『社会科=1本のバナナから』国土社、1987年。
図13:開発教育を考える会編『地球の仲間たち:スリランカ/ニジェール』ひだまり舎、2019年。

4)東京山手YMCAと「国際理解講座」

 大学時代に寄宿していた山手学舎を併設していた東京YMCAの山手ブランチ(新宿区西早稲田、現在は山手コミュニティセンター)では、1981年から国際理解講座が企画運営されており*13、帰国した年の11月には第12期となる講座の開講が予定されていました。当時の山手ブランチの主任主事であった並○○一氏にお誘いいただき、国際プログラム委員会にオブザーバーとして出席して、その講座の企画運営に参加するようになりました。当時の委員長は奈○○彦氏(東京YMCA)で、この委員会で重○○博氏(国際協力推進協会)や高○○夫氏(早稲田奉仕園)とお会いしました*14。その第12期「国際理解講座」の概要は以下の通りでした。なお、故・望月賢一郎先生(恵泉女学園短期大学)と委員会でお会いしたと記憶していますが、この時ではなく、第13期以降の委員会でお会いしたのかも知れません*15

<1987年度>東京山手YMCA国際理解講座(第12期)※敬称略
 テーマ「食卓から見えるアジア」※所属先は当時のもの
  第1回(11月14日(土)16:00-18:00)「お砂糖とアジア:ネグロス島の子供達を救え」
    請師:堀田正彦(日本ネグロス・キャンベーン委員会)
  第2回(11月14日 (土)18:00-20:00 )「日本製化学調味料のアジア侵食」
    講師:里見 宏(国立公衆衛生院)
  第3回(11月20日 (金)19:00-21:00 )「天ぷらが口に入るまで:エビ大量輸入の背景」
    請師:村井吉敬(上智大学アジア文化研究所)
  第4回(11月28日 (土)16:00-18:00 )「粉ミルクに脅かされるアジアの子供達」
    講師:中谷文美(乳児用粉ミルク間類を考える会)
  第5回(11月28日 (土)18:00-20:00 )「総論:日本とアジアの食糧事情」
    請師:高見敏弘(アジア学院)
  合 宿(11月28日(土)20:30ー29日(日)12:00、於:早稲田奉仕園)

  参加費:各回800円、全回3500円 合宿3500円。
  主 催東京山手YMCA国際プログラム委員会

*13 東京山手YMCAで始まった国際理解講座は、 田中治彦氏(日本国際交流センター)や山本俊正氏(東京YMCA担当主事 )らが企画運営を担当されていたが、開発教育の視点を取り入れた市民講座としてはその草分けといえるだろう。また、アジア学院(栃木県・西那須野町)でのワークキャンプも1975年から始まったという。当初の経緯やその内容については、以下を参照されたい(図16、図17)。〔参考文献〕田中治彦「国際理解講座の企画・運営・評価」『開発教育』No.3、開発教育協議会、1984年、1-16頁。山本俊正「ワークキャンプと開発教育」『開発教育』No.2、開発教育協議会、1983年、19-30頁。
*14 奈○○彦氏は東京YMCAの会員や委員として長く、本業は建築士として設計事務所を経営されていた。その後、JICAのシニアボランティアとして、ブータンとセントルシアで活動され、関西の開発教育の拠点である(財団法人)日本クリスチャンアカデミーが運営する関西セミナーハウスの所長も務められた。重○○博氏とはその後、NGO活動や開発教育などの関係で共に仕事をさせていただく機会に恵まれ、現在、宇都宮大学ではいくつかの授業を共に担当している。高○○夫氏は当時、早稲田奉仕園にスタッフとして勤務されていて、シャプラニールの運営委員もされていた。確かアジア研究者の鶴見良行氏と親しい間柄で、よく鶴見氏の話をされていた記憶が残っている。その後、曹洞宗ボランティア会(現在のシャンティ国際ボランティア会)のスタッフになられた。
*15 故・望月賢一郎先生は、日本キリスト教団の宣教師として、チェンマイにあるタイ唯一のキリスト教総合大学であるパヤップ大学神学部に長く務められ、その後、恵泉女学園短期大学の教授となられた。望月先生とご一緒した時間は少なかったが、温和なお人柄でありながら、アジアの開発や人権の問題とそのアジアに対して日本が犯した過去の過ちに向けられる厳しい視線からは多くを学ばせていただいた(図18)。〔参考文献〕望月賢一郎『アジアの視点から見た日本』日本基督教教団出版会、1982年。

図18:望月賢一郎『アジアの視点から見た日本』日本基督教団出版会、1982年。
図17:『開発教育』NO.3、1984年
図16:『開発教育』No.2、1983年。

5)ICYEの帰国生活動

 大学4年の夏に休学してアメリカでの1年間の“遊学”ないしは“モラトリアム”の機会を提供してくれたICYE(現在の(NPO法人)国際文化青年交換連盟日本委員会)には愛着がありました。グランドツアーからの帰国後、ICYEの事務局が当時は神田美土代町にあった東京YMCA英語専門学校内に置かれており、挨拶に出向きました。その時に出会ったのが東京YのスタッフでICYEを担当していた福○○○み氏で、福○氏とはその後、長くICYEの活動を共にすることになりました。この訪問を機に、海外から来日する交換生(exchangees)のオリエンテーションや各種プログラムなどを、ほかの帰国生(returnees)らと手伝うこととなりました。
 来日生の大半は首都圏にホームステイしながら、高校に通学したり、ボランティア団体などで活動しており、日々の生活や活動をサポートする運営体制の強化が課題となっていました。そうした中で、帰国生の活動の活性化を図ろうという話が持ち上がり、首都圏在住の帰国生を中心に、江ノ島での海水浴や高尾山へのハイキングを企画したり、冬のクリスマス会などの企画運営を担いました。1988年5月には、目白の聖公会で帰国生同窓会を開催しましたが、それを機に89年10月には「ICYEネットワーク」という同窓会組織を立ち上げ、その会長に担がれた時期もありました。
 ついでに、それ以降のICYEとの関係を紹介すれば、記憶が定かではありませんが、1990年頃から10年余りの間、ICYE日本委員会の委員となり、その運営に関わりました。しかしながら、2000年を過ぎた頃だったか東京YMCAの財政が危機的状況に陥っていることが伝えられ、YMCAからの組織的な自立を検討する必要に迫られることとなりました*16。一番の問題は、当時のICYE日本委員会が法人格を有していない任意団体であったことでした。そのため、海外から来日する交換生の在留資格を申請する際に、財団法人東京YMCAが身元保証人となっていたのです。つまり、社会的に認知された東京YMCAという後ろ盾があってのICYE日本委員会だったわけです。したがって、YMCAから自立するということは、自前の事務所ないしは事務局を持つこと以上に、組織に対する信頼と社会に対する責任に基づいた活動を続けていくことを意味していました。
 そうした状況の中で幸いだったことは、1996年に特定非営利活動促進法(NPO法)が成立して、資金力の無いボランティア団体であっても比較的簡易な手続で法人格を取得できる制度が整っていたことでした。委員会でNPO法人化の方針が確認されると、わたしが委員長に任命され、副委員長であった故・○○○淳氏 *17 らとともに、法人化に向けた準備を始めることとなりました。その結果、2002(平成14)年8月に東京都からNPO法人としての認証を受け、NPO法人となったICYE日本委員会の初代理事長として新たなスタートを切ることになりました。事務所探しは苦労しましたが、帰国生仲間として一緒に組織づくりを進め、副理事長に就任した北○毅氏の尽力もあり、港区麻布十番に格安な物件を見つけることができました。事務局スタッフの求人広告を英字新聞のジャパンタイムズに出して、なんとか1名採用できましたが、給与は低い上に、半端ない事務作業量に耐えきれず、事務局スタッフはなかなか定着しなかったように記憶しています。他方、この時期のわたしは、子どもが生まれて家事や育児を分担したり、事務局長を務めていた開発教育協議会でもNPO法人化の業務を担当したりしていました。結局、過労で休養を取らざるを得なくなり、ICYEの理事長職を退くこととなりました。
 以来、ICYEとの関係は途切れてしまいましたが、ウェブサイトを通じて現在の様子を拝察すれば、当時と比べるとプログラムの内容が多様化し、新たな組織として生まれ変わった印象を受けています。

*16 東京YMCAは2003年に多額の負債返済のため神田の会館や各地の施設を売却した。神田の会館は明治時代から数えて三代目の会館であり、創設110周年を記念して1991年に竣工してからわずか10年余りで解体された。この会館は「国際奉仕センター」と呼ばれ、国際理解や国際協力に関する各種講座やNGOとの協働プログラムの会場となっており、筆者も担当した「地球市民アカデミア」もここを学びの場としていた。以来、「神田美土代町7番地」は住友不動産のオフィスビルとなり、ビル前には「2003年に江東区東陽に移転するまでの109年間、青少年及び市民の世界的根拠として活動を続けた」と書かれた記念碑が建っている。
*17 故・○○○淳氏は、1970年代初めにICYEの交換生としてスウェーデンに滞在。帰国後は日本語教師として、立教大学や早稲田大学で教壇に立たれた。1989年にコスタリカで開催されたICYE連盟の総会に、東京YMCAの福○氏とともに参加したことが懐かしく思い出される。

<コラム>「グローバル人材とICYE」

 昨今では「グローバル人材」の育成が多方面から求められるようになった。しかし、大人たちが敷いたレールの上で見栄えの良いアイデアをそつなくプレゼンするような「人材」が評価される傾向にあるのではないかと心配している。
 40年近く前に自分自身がICYEに参加した理由は、現実から逃避したいという消極的なものではあった。しかし、1年という短い期間でありながら、ICYEでの経験は今の自分の人格形成に少なからずの影響を与えたといえるだろう。ICYEのプログラムはけっして“親切な”プログラムではなかった。むしろ予定調和的ではない異文化や多文化の環境の中に、参加者をあえて“放り込む”ことによって、かれらがトラブルやストレスを体験し、摩擦や葛藤に直面することを予測し、期待すらしていたのではないか。そしてそれらを自ら乗り越えていく機会を与え、そうしたかれらの“異文化体験”や“多文化体験”をサポートしようとするのがICYEの「売り」であり、「腕の見せ所」だったのである。もちろん、それだけに事務局を担当した裏方の方々の気遣いや気苦労が絶えなかったのは推して知るべしである。
 宗教や民族、言語や国籍などの相違点と、同じ人間としての共通点を理解し共有しなながら、誤解や偏見、衝突や対立を乗り越えて、立ち直っていこうとする態度や姿勢、今風に言えば「非認知的スキル」の大切さを実社会や実体験から学んでいく。そして、国内外を問わず、八方塞がりな困難や自分とは異なる他者と向きあったときに、感情的に折れたり切れたりするのではなく、あるいは思考停止に陥るのでもなく、対話し協働できる耐性や弾力性(regilience)を身に付けていくこと。そうした「力」や「知恵」が困難で不透明なグローバル時代にはますます求められていく。厳しい選考を勝ち抜いて、ある特定の組織に採用されて初めて成立する「グローバル人材」ではなく、日々の生活や仕事の中で「レジリエントな若者・市民」が増えていくことが、時間がかかっても「平和」の実現に少しずつ近づいていく方法のひとつなのではないだろうか。

6)「KISコーナー」と「アジア市民フォーラム」

 YMCAの主事から紹介された面会者リストの中に荻○○朗氏の名前がありました。横浜の山下公園から道を挟んだところに産業貿易センタービルという建物が今もありますが、当時その9階に、財団法人神奈川県国際交流協会(以下「交流協会」)の事務所がありました。そのフロアに「KIS(コーナー)」という交流・情報スペースが開設されており、荻○氏はその担当者でした*18。産業貿易センターという見上げるような建物が当時のわたしにとってはとても立派に見え、また、「神奈川県国際交流協会」というお役所のような名称の組織だったので、わたしは内心は緊張しながら荻○氏を訪ねたのでした。
 入口で荻○氏に面会に来た旨を告げて待っていると、荻○氏が現れたのですが、実にラフな服装(確かジーンズ姿?)だったので少し拍子抜けした記憶があります。挨拶もそこそこにして荻○氏は「あのレポートを書いた湯本くんですよね。とても面白かったですよ」と中央アフリカから知人宛に送ったレポートのことを褒めてくれました。しかし荻○氏には当然送っていないので「どこで読まれたんですか?」と尋ねると、「知り合いから回ってきたんですよ」とのことでした。その後も初対面の人から「レポートを読んだ」と声をかけられることが何度もあったのですが、電子メールやインターネットのない時代でしたので、レポートを読んだ人がわざわざコピーして手渡したり、転送していたことが分かりました。
 それはさておき、荻○氏からは交流協会のことやKISコーナーのことをはじめ、神奈川県内の市民活動やNGO活動のことを丁寧に紹介してもらいました。自分が真鶴に住んでいることを伝えると、すかさず「まなづる生活学校」*19の奥○○子氏や青○○美氏 の名前があがったのは、それだけで荻○氏のネットワークの広さが分かりました。また、交流協会には、当時、日本国際ボランティアセンターの神奈川事務所(JVC神奈川)が置かれており*20、その担当者であった山○○一氏(後に国際協力NGOセンター〔JANIC〕事務局長)と出会ったのもこの時が初めてでした。
 そして、荻○氏からの最大のお土産は、1988年3月に小田原で国際フォーラムを開催するための実行委員会が動いているので参加しないかというお誘いでした。この委員会は正式名を「市民とアジアをむすぶ国際フォーラム(略称:アジア市民フォーラム)実行委員会」といい、国際協力や「アジア」をテーマに神奈川県内や東京都内などで活動するNGOや市民グループの関係者で構成されていました(図19、図20および図21)。実行委員長は星○○子氏(日本国際ボランティアセンター事務局長)、事務局長は内○○男氏(シャプラニール=市民による海外協力の会運営委員)、実行委員は数十名という大所帯でした。その対外的な連絡窓口、つまり実質的な事務局を引き受けたのも「KIS」であり、荻○氏でした。
 実行委員会には途中から参加しましたが、これがNGO業界との最初の出会いとなりました。当時は国際協力やNGOというものに社会の耳目が向き始めた時期であり、そうした機運を追い風に、委員会には若手中堅の関係者らが集まり、活発な議論が展開されていました。ただ、自分自身はNGO活動の経験がなかったこともあり、その雰囲気にただただ圧倒されるばかりで、慣れない議論になかなか付いていくことができませんでした。ただ、アジアなどの途上国のことについて、そして、国際協力やNGO活動のことについて真剣に議論している人たちが大勢いるということが分かったことは大きな収穫でした。実行委員会ではプレイベントも数多く開催していたので、時間を見つけては参加し、NGOの関係者と次第に顔見知りになっていきました。
 3日間の日程で開催された「アジア市民フォーラム」 *21 には海外からの招聘ゲストのほかに500名を越える参加者があり、メディアの注目も集めたのですが、わたし自身は結局「フォーラム」への参加は見送ることとし、88年1月には、友人の吉○氏と東南アジアと中国に向かったのです。その理由は、吉○氏が沖縄の「青年の集い」に参加していたタイからの参加者や中国の北京在住の知人に会いに行くというので、これを機会に他の国も含めてアジアの国を見て回ってみることにしたのです。また、アフリカ帰国後に国際理解講座や市民フォーラムの企画に関わる機会に恵まれたものの、アジアのことについては、グランドツアーの最後にバンコクや香港に立ち寄っただけで、ほとんど何も知らないという自覚がありました。当時の自分としては、「フォーラム」の企画運営に参加していくことよりも、短い時間であっても、まずはアジアの土を踏み、アジアの空気を吸うことの方が自分には必要なのではないかという気持ちが湧いていたのです。

*18 1987年に開設。「KIS」とはKanagawa Information Stationの略で、国際協力や国際交流などの分野で活動する団体やグループの打ち合わせや事務作業用のスペースを無償で提供したり、イベントのチラシや団体のパンフレットを無料で配架していた。現在ではこうした市民活動を支援する場を提供する公共機関は珍しくなくなっているが、当時としては先駆的な試みであった。なお、神奈川県国際交流協会は、2007年にかながわ学術研究交流財団と統合され、かながわ国際交流財団として再編されている。
*19 1973年に発足。当初は、合成洗剤追放などの消費者運動の取り組みに始まり、その後は食品公害や環境・資源問題、南北問題や平和問題などへと活動の視野を広げていった。スライド資料「合成洗剤」や「豊かさの裏側」などをはじめ、紙芝居「ママなぜ合成洗剤使うの」を制作している。

*20 70年代末のインドシナ難民問題に対する日本社会の対応が問われる中で、神奈川県、神奈川県国際交流協会、国際連合協会神奈川県本部、日本赤十字社神奈川支部などが「インドネシア難民救援募金」を共催。寄付金2,300万円を設立間もない当時のJVC(日本奉仕センター、Japanese Volunteer Center)に寄託したことを機に、神奈川県国際交流協会内にJVC神奈川が置かれることとなった。
*21 「フォーラム」は1988年3月19日から22日までの3日間の日程で、当時、財団法人MRAハウスが運営していた研修施設「アジアセンター」(2007年閉館)と小田原女子短期大学(現在の小田原短期大学)を会場に開催。国際協力分野のNGOや市民団体が主催した国際フォーラムとしては、日本で最初の取り組みであった。プログラムの中心は「分科会」で、次のような15の分科会が同時進行した。
 ①「里親という海外協力~子どもを通してアジアを知る」、②「アジア人労働者、そしてニッポン」、③「定住難民~日本の中で自立して生きるために」、④「熱帯林~今、緑が危ない!熱帯林あっての地球です」、⑤「第三世界とつながるモノ市場―いま、モノの輸入と販売が私たちの手で始まった」、⑥「スタディーツアー…誰のため?何のため?」、⑦「開発教育…教育にアジアの風が吹く」、⑧「地域からの国際化」、⑨「私たちに今できることは何?…暮らしの中の海外協力」、⑩「第三世界の消費問題と私たち…市民ネットワークで企業の監視を」、⑪「罪無囚われた人々へ―第三世界の人権問題と私達」、⑫「農村開発~村のオバサンが輝きはじめると、暮らしがよくなる」、⑬「保健医療―地域医療…生活の中の医療でみる日本とアジアの現実」、⑭「アジア・アフリカにおいて有機農業は成り立つか?」、⑮「政府開発援助(ODA)を問い直し、NGOの役割を考える」。
 そのほかにも多数の海外ゲストをはじめ、国内に在住する外国籍市民やNGO界の“名物人物”(藤○○子氏〔インド困窮児教育里親グループ〕、石○実氏〔京葉教育文化センター〕、草○○一氏〔PHD協会〕、池○○憲〔アジア保健研修所〕)らを囲んだサイドイベントなどが同時開催された。〔参考図書〕アジア市民フォーラム(編)『アジアの草の根ネットワーキング』学陽書房、1990年、(図22)。

図22:報告書『アジアの草の根ネットワーキング』
図21:情報誌「wai.wai」第2号
図20:「フォーラム」の開催要綱
図19:「フォーラム」のちらし

<コラム>「民際外交」と「開発教育」

 上述の通り、「KISコーナー」と「アジア市民フォーラム」について紹介したが、なぜ神奈川県国際交流協会という自治体の外郭団体でこうした革新的ともいえる先駆的な取り組みが可能となったのか。その背景には、1970年代から90年代にかけて神奈川県知事を5期20年にわたり務めた長洲一二氏(故人)が提唱した「民際外交」の理念があった。「民際外交」とは、国家間の交渉である「国際外交」に対して、国境を越えた自治体や市民の直接的な相互交流を通じて世界平和の実現に貢献していこうとする考え方や政策を意味する。
 1975(昭和50)年の知事就任後、長洲知事は公約であった「新神奈川宣言」を実行に移し、1976年に当時の渉外部の中に「国際交流課」を設置したほか、1977年には産業貿易センター内に「国際交流センター」を開設するとともに、神奈川県国際交流協会(以下「交流協会」)を設立して、その運営を委託した。
 その後「国際交流課」や「交流協会」は開発教育という言葉を声高には発しないものの、日本での開発教育の始動期にあたる1980年代前半に、すでに神奈川県として開発教育関連の独自な取り組みが始まっている。たとえば、1980年には「開発教育シンポジウム:人類共存の道を求めて」が開催されているが、これは1979年に東京で開催された同シンポジウムの2回目として神奈川県などが共催したものである*22
 また、1985年から90年代初めにかけて刊行された小冊子「たみちゃんシリーズ」は当時数少なかった日本独自の開発教育教材として特筆されるだろう(※本シリーズは後に明石書店から合本されて発行。図22、図23および図24)。これは1983年に神奈川県が主催した「海外協力研究会:神奈川から海外協力のあり方を求めて」*23 の成果をもとに企画されたもので、中学2年生の「たみちゃん」が南の人びとや国々と出会う中で、南北問題や海外協力、そして地球社会が抱える問題、さらに多文化共生などの地域の課題を考えていくというストーリーが展開されていく。第1作目の『たみちゃんと南の人びと』から第4作『たみちゃんのスタディツアー』までは国際交流課が企画発行し、第5作『たみちゃんとカンボジアの少女ソナ』から第10作『たみちゃんの、時間のふしぎと南の知恵』は交流協会が企画発行している。いずれも執筆編集は「21世紀をともに生きる地球の仲間」たちが担当したが、そのメンバーの中は、前出の福澤郁文氏をはじめ、雨森孝悦氏、臼井香里氏、太○弘氏、甲○○○○子氏ら、当時の開発教育協議会の関係者がいた。なお、「たみちゃん」とは「わたしたち一人ひとり」であり、「たみちゃん」の「たみ」は「民際外交」の「民」、そして「市民」の「民」という願いや意味が込められている。
 90年代にはいると、93年に「開発教育国際フォーラム:“地域”は“世界”を変えていく」(実行委員長:武○○○○秀氏、事務局:交流協会)を開催(図25)。また、英国とオランダの開発教育に学ぶスタディツアーを実施して、英国のNGOが制作した開発教育教材の日本語版として『貿易ゲーム(原題:The Trading Game)』(原作:ChristianAid)や『世界からやってくる私たちの食べ物(原題:The World in the Supermarket Bag)』(原作:OXFAM)などが制作された(図26、図27)。
 このように神奈川では「民際外交」という自治体行政の政策と市民の発意による「開発教育」という新しい教育運動が理念的にも事業的にも結びつきながら展開されていた。上記のような一連の取り組みに共通していることは、どこか1つのエッジの効いた組織、あるいは誰か一人の強力なリーダーシップがプロセスを動かしているのではないというということだった。そして、異業種異分野の初対面な個人や団体が互いに出会う場を設け、共通の目標や願いを設定し、それぞれの個性的な持ち味やリソース(資源)を共有しながら、合意を形成し、意思を決定していく、そうした参加型で民主的なプロセスや人的なネットワークを重視したきたことなのではないか。その役割や機能を果たしたのが当時の「国際交流課」や「交流協会」であり、そのキーパースンのひとりが荻○氏だったのである。当時、“ネットワーキング *24” という言葉が業界のキーワードになったことがあるが、荻○氏は「人と人を引き合わせて」新たな関係や企画を生み出すまさにネットワーカーであり、それによる相乗効果(シナジー)を発生させ促進させるカタリスト(catalyst, 触媒)そのものであった。

図24:『たみちゃんと南の人びと3』 発行:明石書店、1994年。
図23:『たみちゃんと南の人びと2』 発行:明石書店、1992年。
図22:『たみちゃんと南の人びと』発行:明石書店、1987年。

*22 このシンポジウムでは長洲一二知事が開会講演「ともに築こう“地球の時代”を」に、ニコ・ヴァン・ウーデンホーヴェン氏(ユニセフ開発教育官)が主題講演「開発教育とは:その理念と実践」にそれぞれ登壇。パネルディスカッションでは、室靖氏(東和大学国際教育研究所)が司会を務め、緒方貞子氏(上智大学)、金谷敏郎氏(国立教育研究所)、V・キェルベルク氏(国連大学)、鶴見良行氏(評論家)らがそれぞれ発題を行った。〔参考文献〕開発教育シンポジウム実行委員会『開発教育を考える:人類の平和と共存を考える』。
*23 この研究会では、西川潤氏(早稲田大学)の基調講演「南北問題と市民・地域の役割」に始まり、室靖氏(東和大学国際教育研究所)、高見敏弘氏(アジア学院)、大橋正明氏(シャプラニール=市民による海外協力の会)らをパネリストに迎えたパネルディスカッション「日常生活の中で、市民の立場から考える」が行われた。〔参考文献〕21世紀をともに生きる地球の仲間(編)『たみちゃんと南の人びと』明石書店、1987年、23-26頁。
*24 1984年に『ネットワーキング:ヨコ型情報社会の潮流』 (J・リップナック&J・スタンプス著、社会開発統計研究所訳、プレジデント社)が発行され、新しい社会の構成原理としての「ネットワーキング」に関心を集めた。本書では、アメリカに拡がる市民的な価値観や市民の自発性に基づいた社会運動体を「ネットワーキング」と定義して、経済的軍事的な超大国として拡張する国家としての「アメリカ」に対抗する「もうひとつのアメリカ」が形成されているとした。

図27:神奈川県国際交流協会『世界からやってくる私たちの食べ物』1996年。
図26:神奈川県国際交流協会『貿易ゲーム』1995年。
図25:『開発教育国際フォーラム「“地域”は“世界”を変えていく」報告書』1994年。

<参考:神奈川における開発教育関連事業の展開>
  1980年 「インドシナ難民救援募金」実施。
   〃  第2回「開発教育シンポジウム:人類共存の道を求めて」              共催:神奈川県・横浜市・神奈川県国際交流協会・国際連合協会神奈川本部、横浜YMCA。
  1983年 「海外協力研究集会」開催。
  1984年 21世紀をともに生きる地球の仲間(編)「子供たちの見た世界~第三世界を知ろう」発行。

  1985年 21世紀をともに生きる地球の仲間(編) 「たみちゃんシリーズ」刊行開始。
        第1作『たみちゃんと南の人びと』/第2作『たみちゃんの80日間世界一周』/第3作『たみちゃんの日記』
  1987年 KIS(Kanagawa Information Station)の開設。

   〃  「地域の国際化セミナー」開催(主催:同実行委員会)。
   〃  「たみちゃんシリーズ」の第1作から第3作が合本となり『たみちゃんと南の人びと』として明石書店から発行。
  1988年 「アジア市民フォーラム」開催。
  1989年 「民際協力ネットワーク」発足。
  1992年 『たみちゃんと南の人びと Part2』明石書店から発行。
  1993年 神奈川県渉外部国際交流課『開発教育実践者の育成講座の手引き:地球市民としての学習のために』発行。

   〃  「開発教育国際フォーラム:『地域』は『世界』を変えていく」開催。
   〃  「かながわ民際協力基金」設置。
  1994年 『たみちゃんと南の人びと Part3』明石書店から発行。

   〃  「開発教育スタディツアー(英国・オランダ)」実施。
  1995年 「開発教育教材セミナー」開催(共催:開発教育協議会)。開発教育教材『貿易ゲーム』制作(協力:開発教育協議会ほか)。
  1996年 開発教育教材『世界からやってくる私たちの食べ物』制作 (協力:開発教育協議会)。

  1998年 「神奈川県立地球市民かながわプラザ(愛称:アースプラザ)」開所。常設展として「こどもの国際理解展示室」開設。

地球のことば(30):“The Russians love their children too.”

There is no historical precedent
To put the words in the mouth of the president
There’s no such thing as a winnable war
It’s a lie we don’t believe anymore
Mister Reagan says ‘We will protect you’
I don’t subscribe to this point of view
Believe me when I say to you
I hope the Russians love their children too
We share the same biology
Regardless of ideology
What might save us, me and you
Is if the Russians love their children too

これまで聞いたこともないことだよ
大統領にこの言葉を伝えなきゃならないなんて*1
戦争に勝者などいないのに
誰もそんな嘘は信じないのに
「国民を守る」とレーガン大統領は言う
そんなこと納得できないね
それよりぼくが言うことを信じて欲しい
ロシアの人たちもきっと我が子が可愛いはずだよ
かれらもぼくらも同じ「生」を受けている
イデオロギーなんて関係ない
この危機はきっと乗り越えられるよ
ロシアの人たちも我が子を愛しているはずだから*2

(仮訳:湯本浩之)

スティング(Sting ミュージシャン〔英国〕1951~現在)
Original Source: Sting, “Russians”, The Dream of the Blue Turtles, A & M Records, 1985.
出典:スティング「ラシアンズ」『ブルー・タートルの夢』ポリドール、1985年。
Official Music Video:

 Sting♪ “Russians” YouTube.
 Universal Music Japan International♪「和訳MV:スティング – ラシアンズ」YouTube.

図1:スティング『ブルー・タートルの夢』

<コメント>
 たったひとりの為政者によって、今から30年余り前に終結したはずのあの東西冷戦時代に世界は引き戻されてしまった。
 第2次世界大戦後の世界は、アメリカ合衆国(米国)とソビエト連邦(ソ連)をそれぞれ盟主とする西側資本主義陣営と東側共産主義陣営とに長く分断されてきた。その委細や経緯は他書に譲るが、70年代に緊張緩和(デタント)が進んだものの、それを引き裂いたのがソ連軍によるアフガニスタン侵攻(1979年)であった。今と同様に国際社会が緊張感を高める中、1981年に米国大統領に就任したレーガン(Ronald Reagan)は「偉大なアメリカ」を標榜し、ソ連を「悪の帝国」と非難して反共産主義の姿勢を露わにした。
 本曲「Russians(ラシアンズ)」はそうしたデタント後の「新冷戦」真っ只中の1985年に発表された反戦歌である*3。歌っているのはスティング(Sting)。と言っても、今の若い人にはピンとこないだろう。1977年にレゲエを取り入れた異色のパンクバンドとしてデビュー。1980年代前半にかけてヒット曲を連発した英国ロックバンド、ポリス(The Police)を率いたミュージシャンである*4。しかし、ポリス名義での活動期間は短く、1983年に5作目となるポリス最大のヒットアルバム『シンクロニシティ』を発表して活動を停止。スティングは、1985年に本曲が収められたアルバム『ブルー・タートルの夢』(図1)でソロデビューしてからも第一線で活躍している。
 本曲では冷戦下で核武装する米ソの政治的指導者の言動が批判されている。歌詞の中の「フルシチョフ*5」や「レーガン」を「プーチン」や「バイデン」と置き換えれば、状況は現在とほとんど変わらないことが分かる。曲中で繰り返される“the Russians love their children too”というフレーズが印象に残るが、国家間の紛争を解決するのは為政者の言葉ではなく、子どもたちを愛する心ではないかとスティングは問いかけている。しかし、そうした国境や民族を超えた普遍的な愛情や民主的な価値観さえもが、苛烈な暴力や言論の封殺によって横暴な専制や傲慢な独裁の中に幽閉されようとしている。
 ロシアによるウクライナ侵攻は、ソ連によるアフガニスタン侵攻と重なる。当時の米国大統領であった民主党のカーター(Jimmy Carter)は再選を果たせず、共和党のレーガンが当選した。現在のウクライナ情勢を打開できず、内戦状態にでもなれば、バイデン(Joe Biden)大統領は再選できず、「アメリカを再び偉大な国に!(Make America Great Again!)」と叫んだあの人が政権に返り咲くのではないか。
 すでに70歳を過ぎたスティングであるが、ウクライナを支援するためのメッセージと本曲のアコースティック演奏を3月6日にインタスグラム上に公開している*6。その中でスティングは、「この曲を書いてから何年も経つのにこれまで歌うことはほとんどなかった」と述べている。その理由は「この曲が再び現実的な意味を持つとは思わなかったからだ」という。たしかに本曲が発表された1985年にゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)がソ連共産党書記長に就任。そして、1991年のソ連崩壊と東西冷戦の終結へとつながっていく。しかし、今回のウクライナ侵攻の種は、当時KGBの工作員だったプーチン氏の胸中深くにすでに埋め込まれたのではないか。
 今、本曲が再び注目されているという*7。しかし、「この曲が再び現実的な意味」を持ってしまったことをスティングはけっして喜んではいないだろう。遠い昔の1240年に外部勢力によって破壊されたキエフの「黄金の門」(キエフの大門)は地中に長く埋もれ、ソ連時代の1982年になって復元されたという*8。今、暴力と権力によって強硬に密閉されようとしている「自由の門」と「平和の扉」を再び開放するために、わたしたちの知恵と勇気が試されている。

<注>
*1 上記で引用した冒頭の一文 に “to put the words in the mouth of” という表現がある。通常の慣用句では “the words” の “the” は付かずに、たとえば ”Don’t put words in my mouth!”(言ってもいないことを言うなよ!)という意味になる。ここでは “the” が付いているので、これは何を意味しているのかと、英語圏でも議論になったようである。拙稿では、この “the words” が本曲のメッセージである “The Russians love their children too” を指していると解釈して、「ロシアの人々も我が子を愛しているという当たり前のことを大統領に伝えなきゃならないなんて、今までも聞いたこともないよ」と訳出した。

*2 同じく最後の一文を直訳すれば「ぼくたちを救ってくれるかも知れないのは、ロシアの人たちも我が子を愛しているかどうかってことだよ」となるが、本曲が平和を訴える曲であることから、「ロシアの人々も我が子を愛しているはずだから、この危機は乗り越えられるよ」と反語的に希望を込めた訳出を試みた。
*3 本曲の旋律は、ロシアの作曲家プロコフィエフ(Sergei Prokofiev, 1891-1953)の組曲『キージェ中尉 (Lieutenant Kijé)』の第2曲「ロマンス (Romance)」から借用されている(※CDに封入の英語の歌詞カードにその記載がある)。
*4 1978年に初のヒット曲となる「ロクサーヌ(Roxanne)」を収録したファーストアルバム『アウトランドス・ダムール(Outlandos d’Amour)』を発表。ポリス時代の代表曲には「孤独のメッセージ(Message in a Bottle) 」(1979年)、「高校教師(Don’t Stand So Closed to Me) 」(1980年)、「マジック(Every Little Thing She Does Is Magic)」(1981年)、「見つめていたい(Every Breath You Take)」(1983年)などが、また、ソロ時代の代表曲には「セット・ゼム・フリー(If You Love Somebody Set Them Free)」(1985年)、「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク(Englishman in New York)」(1987年)、「フィールズ・オブ・ゴールド(Fields of Gold)」(1993年)、そして、映画『レオン』の主題歌となった「シェイプ・オブ・マイ・ハート(Shape of My Heart)」(1993年)などがある。
*5 フルシチョフ(Nikita Khrushchev, 1894-1971)は、米ソ冷戦時代の1953年から1964年までの11年間にわたってソ連共産党第一書記(当時の最高指導者)を務めた。スターリンを批判し、軍縮を進める一方で、ハンガリーへの軍事介入(1956年)を行ったほか、キューバをめぐる米国との対立は、第三次世界大戦まで一触即発のキューバ危機(1962年)へと発展した。
*6  スティングのインスタグラム(theofficialsting)の投稿(2022年3月6日)を参照されたい。なお、この演奏では歌詞の中の ”Mister Reagan says…” のフレーズが省略されている。
*7 スティングから全楽曲の音楽著作権を委譲されたユニバーサル・ミュージック・グループ(UMG)では、本曲の和訳付き動画を2022年3月15日に公開している。
*8 「黄金の門」はキエフ大公国時代の1037年に城壁の入口として建設されたが、1240年に当時のモンゴル帝国の侵略によって破壊。ソ連時代の1982年に復元された。
 なお、ロシアの作曲家ムソルグスキー(Modest Mussorgsky, 1839-1881)の組曲『展覧会の絵』の最終曲に「キエフの大門」という曲がある。これは19世紀、ある建築家が「黄金の門」再建の企画競争に応募した際の設計図(実際には建設されなかった)をモチーフにしているという。ちなみに、この「キエフの大門」は某局のテレビ番組で“珍百景”にズームインする時のBGMとしてお馴染みである。

<参考資料>
(匿名記事)「スティング、全楽曲の音楽著作権をユニバーサルに売却」『ミュージックライフ・クラブ』シンコーミュージック・エンタテイメント、2022年2月15日。

(2022年3月15日)