「グローバル教育」を研究する際に大切にしたいこと

 「グローバル教育」を研究する際に大切にしたいことは、わたしたちが帰属する複雑かつ重層的な地域社会や地球社会の中で、「今何が起きているのか」をまずは「知る」ことです。そして、わたしたちは「今起きていること」から陰に陽に大きな影響を受けていることに「気づく」こと。さらに「今起きていること」や「これから起こること」にわたしたちは関与することができ、その予想される影響や未来に起こりうる結果を変えることができることを「学ぶ」ことです。

 しかし、こうした「学びのプロセス」の出発点となる「今何が起きているのか」を知ることは容易ではありません。なぜなら、多忙な毎日の生活に追われていたり、ネット空間にあふれる雑多な情報の中に溺れていては、その実像や真実を確認することが難しいからです。それが政治や経済に関わることであれば、そこには国家や組織の利害や思惑、そして大人たちの事情や虚栄が複雑かつ幾重にも絡み合い、ますます分かりにくく見えにくいものとなっています。

 ここ数年、国内外のビジネス界では「VUCA(ヴーカ)」という言葉が意識されるようになっています。英語のVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った頭字語ですが、ヒトやモノ、情報やマネーのグローバル化、そして、AI(人工知能)やICT(情報通信技術)のイノベーションが加速度的に進展する一方で、各分野で従来の理論や常識が立ち往生する「想定外」の事態が頻発しています。この10年の日本社会を見ても、大規模な自然災害や原発事故、新型コロナウイルスの流行など、行政や専門家をもってしてもその努力や対応が具体的な成果や解決に結びつかない状況を私たちは目の当たりにしてきました。その結果、政治や経済や社会が予測不能な状態に陥っていることから、こうした「VUCAの時代」を上手に切り抜けながら、いかにビジネスとして生き残っていくのか、そのためにはどのような組織や人材が必要となるのか、ということがこれからの経営戦略にとって重要だというわけです。

 たしかに世界は数年先のことですら予測できないような時代に突入しているのだと思います。しかし、そこで私たち(あるいはあなた自身)はどのような姿勢や態度を取ろうとするのでしょうか。この困難で不透明な時代の中で、競争から脱落しまいと相手よりも自分、他社よりも自社、そして他国よりも自国を優先しようとするのでしょうか。また、これからの時代に必要な「教育」や「学校」とはどのようなものであることが求められるでしょう。ビジネス界では「VUCA」という耳目を集めるキーワードで今の時代を表現していますが、どこか将来に向けた危機や不安を“煽っている”印象も拭えません。そして、若者に対して将来の困難性や時代の予測不可能性を強調し、その難局を打破するための新たな能力や適性を若者に求めるようになっています。たとえば、「21世紀型スキル」や「キーコンテンピシー」と呼ばれてるものがそうですが、そうした能力や適性を備えた「グローバル人材」の育成が大学や学校に要請されているのです。しかし、グローバル市場での苛烈な競争に打ち勝つために「学校」や「大学」、「学習」や「教育」は存在するのでしょうか。

 17つの持続可能な開発目標(SDGs)を掲げる「2030アジェンダ」は「誰一人取り残さない」というメッセージを発しています。「VUCAの時代」に突入していくからこそ、その困難をともに乗り越え、ともに生きていくことがわたしたちは求めれているのではないかと考えます。「VUCA」というキーワードは今の時代のある側面をうまく表現していますが、グローバル時代にはそうした一面があるからこそ、世界は、Sustainability(持続性)、Solidality(連帯性)、Inclusivity(包摂性)、そしてDiversity(多様性)から成る「SSID(シード)の時代」を求めてきたはずです。2030年までの達成が公約されている「持続可能な開発目標(SDGs)」を内容とする「持続可能な開発のためのアジェンダ」のエッセンスはこれらSSIDの概念で説明できるでしょう。「学校」や「大学」、「学習」や「教育」とは人々や社会を分断したり、機会や成果を固定化するためにあるのではないはずです。すくなくともこの研究室が探究しようとする「学校」や「大学」、「学習」や「教育」とは、一部の限られた人々や組織のためのものではありません。「VUCAの時代」をのりこえて、生物や文化の多様性を尊重し、包摂的で持続可能なコミュニティを築き、それぞれの地域的分野的なコミュニティーが互いに連帯連携していくことによって、VUCAのリスクを軽減していくことができるのではないでしょうか。

 そこで、本研究室が探究しようとする「グローバル教育」が重視していることのひとつが「地球社会を観る視点(global perspective)」です。イメージとしては、宇宙から地球という惑星を俯瞰するような視点ですが、既存の理論や主義、定説や常識に囚われず、またある特定の立場や地位、境界や属性からいったん離れて、多面的で複眼的、批判的で客観的に物事を観察し分析しようとする視点と言えるようでしょう。

 そうした視点はすぐに身につくものではありませんが、偏見や憶測、先入観や固定観念などに捕らわれないためにも、信頼できる多様な情報源に接したり、失敗や孤立を恐れずに異なる他者と対話や協働を進め、現場に出向いて「声なき声」に耳を傾けていこうとする態度や姿勢を心掛けることが必要ではないかと思います。

 いずれにせよ、学生の皆さんが比較的簡単にできることとして「本を読む」ことをお薦めします。「本を読む」と言っても、いきなり専門的な研究書を読むことは難しいと思いますので、次に挙げるような寓話や絵本を手に取ってみてはどうでしょう。寓話や絵本とは言え、けっして幼い子ども向けのものではないので、易しい文体の中に深いメッセージを読み解いていくことが大切です。(Jan. 5, 2021, rev. Jun. 14, 2021)

『パパラギ:はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』エーリッヒ・ショイルマン(編著)、岡崎照男(訳)、立風書房、1981年。(文庫版、SB文庫、2009年)

『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』くさばよしみ(編集)、中川学(イラスト)、汐文社、2014年。

『ハリネズミの願い』トーン・テレヘン(著)、長山さき(訳)、新潮社、2016年。

『世界がもし100人の村だったら 』池田香代子(再話)、ダグラズ・ラミス(対訳)、マガジンハウス、2001年。(文庫版〔総集編〕マガジンハウス文庫、2008年)

『茶色の朝』フランク・パブロフ(物語)、ヴィンセント・ギャロ(絵)、高橋哲哉(メッセージ)、藤本一勇(訳)、大月書店、2003年。

『ハチドリのひとしずく:いま、私にできること』辻信一(監修)、光文社、2005年。

☆地球のことば (19)

それでもいい サンは森で わたしはタタラ場で暮らそう ともに生きよう 会いにいくよ ヤックルに乗って

アシタカ(北の地の果てに隠れ住むエミシ一族の若者 生没年不詳/室町時代中期?
出典:宮崎駿(原作・脚本・監督)『もののけ姫』制作:スタジオジブリ、1997年。

<コメント>
 宮崎駿監督はこの映画の狙いについて、次のように語っている。

 “世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるにあたいする事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る。
 憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。
 呪縛を描くのは解放の喜びを描くためである。
 描くべきは、少年の少女への理解であり、少女が、少年に心を開いていく過程である。少女は、最後に少年にいうだろう。
「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」と。
 少年は微笑みながら言うはずだ。
「それでもいい。私とともに生きてくれ」と。
・・・・・・
 そういう映画を作りたいのである。”

 出典:宮崎駿「荒ぶる神々と人間の戦い―この映画の狙い―」『もののけ姫』(映画パンフレット)、発行:東宝、1997年。

 当時の興行収入記録を塗り替えた長編アニメ映画の『もののけ姫』。大自然を象徴する「シシ神」と、産業開発を象徴する「タタラ場」との間の対立と断絶。そして、「森を犯した人間が・・・投げてよこした娘」である「サン」を我が子として育てた山犬の神である「モロの君」と、「森に光が入り、山犬どもが鎮まれば、ここは豊かな国になる」と信じて、タタラ集団を統率する「エボシ御前」との軋轢と相克。こうした二元論的な状況や関係性の狭間で、「森と人が争わずに済む道はないのか」と和解と共生に向けて奔走するエミシ一族の将来を託されながらも村を追放された「アシタカ」。
 公開から早四半世紀が経つが、『もののけ姫』は、今風に言えば、まさしく「SDGs」的物語であり、「持続可能な開発」に内蔵された矛盾や葛藤を描いた希有な快作である。