若者と宗教

 不思議なもので、“超”忙しい時に限って、来訪者が続くものである。しかも、そういう時に限って、どうしても断れないお客様なのである。普段からたいへんお世話になっている方からのご紹介もいただくが、頼まれると断れないという凡庸な性格がしゃしゃり出る場合も実は多い。
 時節柄、学生さんの就職相談や海外現場から帰ってきた関係者の進路相談の相手役を仰せつかる場合も少なくない。しかし、20代の後輩諸氏の姿に、10年前の、あるいは、あの頃の自分の姿が二重写しになるのもまた事実である。
 青年に向かって「大志を抱け」といった古人の言葉を持ち出しても、今の世の中、夢や大志を抱くことは窮屈でなければ厄介である。人生の進路や社会の現実に疑念や限界を感じても、巨大な組織や乱雑な情報からは、真摯な激励や明快な回答を得ることは難しい。
 今の多くの若者が大志を抱けない閉塞したこの状況に今後も加勢していけば、この時代や趨勢に矛盾や退屈を感じる若者ほど、その鋭敏な感性はますます鈍化し、その辛辣な義憤は不平不満に退化していく。その一瞬の精神の空白や思考の間隙に、狡猾な理論で武装した誘惑や野望が潜入するのは意外と簡単なことなのであろう。
 昨今の某宗教法人の一連の言動に対して、これを邪教とし、非道とする数々の言説が連日紹介されている。しかし、誤解を恐れずに言えば、その言説に実のところ、十分な説得力を感じたり、満足な充実感を覚えることが何となくできないでいる。話題の某教団を弁護したり、擁護しているのではない。その教義教典が稚拙であれ狂気であれ、教団幹部の多くが優秀であれ精鋭であれ、その説法を無惨に論破するだけの賢さや、その才覚を社会に還元させていく豊かささえ、今日の私たちの社会が実は持ち得ていないとしたら、震撼すべき真犯人は実はもっと身近なところに奥深く潜んでいるのでないか?その領域に最も近くあるのは、既存の教育界や宗教界ではないかと期待しているのだが、周囲の大人たちは、若者や子ともたちを楯にしようとするのか?それとも自ら楯になろうとするのか?
 この機会に、届かずと思いつつ、手元にあった一番大きな石を向こう岸に思い切り投げてみた。誰かの背中でもかすめ、せめて振り返っていただければと思いつつ・・・(終)

(『JANICnews』No.27、1995年6月1日)

<ひとこと>
 ここでいう「某宗教法人」とは、80年代末から90年代半ばにかけて、監禁や殺人をはじめ、弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件などの凶悪事件を引き起こしたオウム真理教を指している。