若者と活字

 先日ある人にばったり出会った。誰とと問われても、遠い親戚でも、昔の恋人でもない。どこでと問われても、学生時代の行きつけの喫茶店でも、成田空港の出発ロビーでもない。とある本の中でオルテガという人に出会って、新鮮だったのである。
 ホセ・オルテガ・イ・ガゼット。1883年生まれのスペインの哲学者である。乱暴に一言で紹介すれば、「自己を疑わない」“大衆”の愚劣さをほぼ完膚なきまでに批判して、孤高の立場と人生に甘んじた人である。その人とある日ばったり出会ったのである。
 人は生きている人としか出会えないと思うのは間違いで、オカルティックな霊的体験をしなくても、人は時間と空間を越えて、死んだ人と出会うことができる。死んだ人と出会えば、それはびっくりするものだが、死んだ人が生きている人以上に実は生き生きしていて再びびっくりするのは、霊の世界も変わらないだろうと、本の中から察するのである。
 一方、若者の活字離れが云々されて久しい。若者と活字の離れ具合についての確証は持ち合わせがないが、若者が離れたと言うのなら、活字の方も離れたと言わないと均衡を失うのではないか。さらに、活字は死んだ人からも離れつつあるのではないか。活字の中から、死んだ人の姿が消えているのであれば、若者と死んだ人とは疎遠になる。そして、それは過去の真実を忘れ、それに目をつぶることにつながりはしないか。統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、過去に目を閉ざす者は、現代にも目を閉ざすとドイツ国会で説いている。
 所詮、この世は生きている人たちのものかもしれないのだが、このままでは唇滅びて歯寒しになりはしないか。活字が生きている人と死んだ人とを結ばないなら、都会の人間を混雑渋滞の中、故郷に向かわせるお盆の数日や今密かに流行のチャネリングなる異次元交信が、結局その数少ない接点なのだろうか。
 今年も夏が過ぎていく。47年目の夏である。

(『JANICnews』No13、1992年8月25日)

参考:地球のことば (7)「過去に目を閉ざす者は・・・」リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー