生徒会長

 中学時代に生徒会長に立候補したことがある。1学年4学級という比較的小さな中学校であったせいか、生徒会の役員選挙では、各クラスから男女1名が立候補し、全校生徒が投票するという、今思えば「大統領制」が堂々と採用されていた。
 立候補者はまず各クラスの中で選ばれた。もちろん、自ら大志を持って立候補した者もいたであろうが、その多くは担任教師の薦めもあってか、学級委員が自動的に候補者になっていった。学校側としては、民主政治の体験学習という教育的効果を意図しての学校行事だったのであろうが、本人の意思に反して、立候補者に祭り上げられた者はたまらない。校内中の柱という柱、壁という壁が「○○君を生徒会長に!!」とか「△△さんに清き一票を!!」といった選挙ポスターで占められ、トイレの中まで貼り出される始末であった。
 授業の何時限かが選挙キャンペーンに費やされ、プラカードを持った生徒を先頭に、タスキをかけた立候補者とその支持者たち一行が校内中を練り歩き、気勢をあげた。体育館で全校生徒を集めての立会演説会では、校長先生から選挙の意義と民主主義の大切さについての訓示が述べられた後、各候補者から「明るく楽しい中学生生活」とか「みんなに好かれる生徒会」といった選挙公約が連呼された。教師たちの多くは、腕を組み、満足そうに候補者たちを見守っていた。
 候補者の中には、見事に演出された大演説を打つ者もいて圧巻だったが、当事者であった私は、壇上で自分が何を公言しているのかも分からず、ただ恥辱の中にいたのである。民主主義という名の下で演じられるこんな群衆劇に対する疑念とそこから抜け出せない自分に対する憤怒を子ども心に抱いていたのである。
 こんな当時の淡い想い出を無理矢理に現在の日本の政治風土に擦り合わせる勇気は勿論ないし、両者の間に因果を見抜く知恵も働かない。ただ、与党の派閥内紛劇とそれを取り巻く周囲を横目に、当時の自分の姿が懐かしくも悲しく甦っただけのことである。
 領袖が1人去り、また1人生まれた。

(『JANICnews』No.14、1992年10月24日)

<ひとこと>
 当時、自民党最大派閥の竹下派会長だった金丸信が、1992年に東京佐川急便からの5億円献金問題で議員辞職し、竹下派会長も辞任。竹下派が求心力を失う中、竹下派七奉行の一人だった小沢一郎がその後に自民党を飛び出して新生党を結成。93年の総選挙の結果、非自民党勢力を結集して細川護熙政権を誕生させた。