平和なときの平和論

 「平和なときの平和論」という言葉に、あるエッセイの中で出会ったことがある。
 戦争前の平和な時代に平和を説くのは難しくない、誰でも平和について語ることができる。そして、これを “言論の自由” と讃えることができる。
 しかし、いざ戦争が避けられない状況が近づいて来た時に、平和を唱えることは危険である。少なくとも勇気がいる。勇気というものは誰にでもあるものではないから、次第に誰も唱えなくなる。いよいよ戦争になって、戦争反対を叫び、平和を説いて歩くのは命がけである。周囲からは非国民呼ばわりされる。石まで投げ付けられる。その時、非国民呼ばわりしている者は、平和な時に平和を唱えていた者であると、石を投げ付けている者は、あの時 “言論の自由” を讃えていた者であるという皮肉を喝破していたので記憶に新しい。
 思うに、このような “平和論” を支える “言論の自由” とは何なのか?それは大勢と同じことを言う自由である。すなわち、大勢が石を投げる時、共に石を投げる自由である。投げない者の手を取って投げさせる自由であり、それでも投げない者を標的にする自由のことではないかと怪しんでいる。
 中東危機が長期化の様相を見せる今、“平和なときの平和論”をふと思い返した。

(『JANICnews』No.7、1990年9月25日、一部加筆修正)

参考:山本夏彦「あいさつ」『生きていた人と死んだ人』文藝春秋、1988年、29-33頁。文庫版(文春文庫、1991年、30-33頁)。本書の中でこの言葉「平和なときの平和論」は内村鑑三のものだというが、出典は定かではない。ご存じの方はご教示いただければ幸いである。