正義

 お金(カネ)というものは、誰もが欲して、なかなか得られないものである。だから、世の中カネじゃないと正論を吐いたり、カネは人心を乱すと見栄を張ったりしても、そうは問屋が卸さないものである。
 政財界の疑獄や醜聞が白日の下に哂されるたびに、大手マスコミは、鬼の首を取ったかのように、政治の腐敗を喝破をし、巨悪の追及を連呼している。世間は紙面に踊る大見出しと画面に流れるニュース速報に喝采を送り、溜飲を下げている。
 「カネと政治」にまつわる一連の事件や行状を弁護するつもりは毛頭ないが、さりとて、ステレオタイプな報道姿勢やそれを真に受ける世間を擁護するつもりも全然ない。カネと権力に縁のない者にとって、唯一の武器は“正義”である。しかし、カネと権力が欲して得られないものだとすれば、汚職や不正に対峙する今の“正義”に感じられるのは、正義感ではなく嫉妬心である。日常に安住し、現状を甘受する者の“正義”とは、“お茶の間の正義”に他ならず、これに便乗するマスコミの“正義”も、“お茶の間への迎合”に過ぎない。「カネのかからない政治を」と誰もが言うが、カネをかけなければ良くも悪くも政治はできないことぐらい知る人は知る。しかし、そう言えば“お茶の間の正義”が許さない。“嫉妬深い正義”が黙っていない。良識あるジャーナリズムも講読数や視聴率には勝てないから、その影をひそめざるを得ないのである。
 “お茶の間の正義”は、全ての道を政治に託して、己を律しない。“嫉妬深い正義”は、全ての責を政治に帰して、己を省みない。国民以上の政府や政治が成り立たない理由である。疑獄の渦中にいる政治家諸氏が、今回もことごとく当選する理由である。正義とは、そもそも実に不健康なものでなければ、誠に面倒なものかも知れないのである。
 政治改革を絶叫することはたやすい。しかし、高めに振り上げられた握りこぶしは、その落ちつき先が見当らず、その姿は貧相でなければ可哀相である。
 古人の言葉を借りれば、変えるべきものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして、変えるべきものと変えられないものとを区別する知恵を持つべき時に来ているのだろう。
 総選挙が近い。

(『JANICnews』No17、1993年7月10日)

参考:地球のことば (16)「神よ、変えることのできるものについて・・・」ラインホールド・ニーバー