近ごろ、桜前線がヘンである。少し前なら、九州南部に始まり、四国や本州の太平洋岸を北上しながら、北海道まで駆け上って、誰も怪しまなかった。
 今年の開花一番乗りは、四国・高知の3月28日。東京は3日遅れの31日と発表された。だからと言って、東京以南の全域で開花したわけではない。このごろの桜前線が素直に北上しないのは、そうさせてくれないからで、自ら進んでのことではない。
 大都会東京が過剰に放出するエネルギーによって、都心の平均気温が南紀や東海のそれよりも高くなってしまったことがその原囚らしい。その責を問う議論は、結局ここでも“東京一極集中”ということで落ち着くのであろうか。さもなければ、異常気象だと、地球環境の異変だと騒ぎ立ててもいい。しかし、「騒ぐ人」と「騒がない人亅とは瓜二つであることは旧号で触れた。
 何はともあれ、吉野の桜がいつ咲こうが、上野の桜がいつ咲こうが、我が身に火急の被害が及ぶわけではない。だから、桜前線が北上しないのは、やはり不自然ではないか、異常事態ではないかと、花見の宴の最中に切り出すには余程の勇気がいる。これは現代文明に対する警鐘ではないかと、満開の桜並木の下で、演説をぶつにも相当の度胸がいる。そして、余程の勇気や相当の度胸がある老若男女をすっかり見かけなくなれば、やがて、桜前線の逆行や奇行を怪しむ者もいなくなる。
 こんな余計な心配を引きずりながら、毎日の行き帰りの途中にある保育園の前を通りかかった。大きな2本の桜の木を構えるその玄関先で、娘を送り届けに来た妙齢の母親が、愚図る幼な子に当惑していた。よくある光景かと思いつつ脇を通り過ぎれば、散り始めた桜の枝先を指差して「お花が飛んで行っちゃうよう」とその子はご機嫌斜めなのである。「桜の木はね、春に桜の神様が来るとお花が咲くの。桜の神様は舂が来たことをみんなに知らせないといけないから、まだ咲いていない桜の木の所へ行かなくちゃいけないの。だから、行ってらっしゃい、って桜の木は言ってるの」。母親の機転で気を取り直した幼な子は「行ってきま~す」と園内に駆け込んでいった。
 「もんじゅ」の臨界、首相の辞意表明に始まった新年度。陽春の椿事を幼な子に伝えるとすれば、この母親はどんな機転を利かせるのだろうか。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と古人は言っている。

(『JANICnews』No.21、1994年4月25日)