騒ぐ人と騒がない人

 「一年を振り返ると実にいろいろなことがありました」とは年末年始のテレビの決まり文句である。実際、いろいろなことがあるので、それには異議異論はない。
 いろいろなことが起こるたびに、人は「騒ぐ人」と「騒がない人」とに分かれる。「騒がない人」は、さらに“知ってて知らんぷりする人”と“無関心な人”とに分かれる。「騒ぐ人」は、さらに“本気で騒ぐ人”と“ついでに騒ぐ人”とに分かれる。“ついでに騒ぐ人”は“本気で騒ぐ人”以上に騒ぐので、どっちが本気か分からなくなる。結局、“本気で騒ぐ人”が割り引かれ、年末には十把一絡げである。
 “本気で騒ぐ人”とは、本気になるのが仕事の人でなければ、身の危険を感じた人である。“ついでに騒ぐ人”とは、騒ぐのが商売の人でなければ、寄らば大樹の陰に入る人である。このうち、身の危険を感じた人を除けば、問題の行方に関わらず、我が日常に火急の危害が及ぶことは少ない。
 安全圈にいると思っている人々が世間であり、その騒ぎが世論であるなら、そんな世間世論の図体は大きくても、力量は小さい。身の危険を感じた人の声も絶叫しているが、その絶叫は天にも届かなければ地も届かない。そんな世間には観る目がなく、こんな世論は聴く耳を持たないからである。「壁に耳あり障子に目あり」と古人は言ったが、土壁や障子がある家は今数少ない。
 結局、悲しいかな本気で騒いでもダメだなと降参するが、無理が通って道理が引っ込むと言って嘆くと“知ってて知らんぷりする人”に変身する。知らんぷりをしすぎるど“無関心な人”に脱皮して、お正月の双六は振り出しに戻るのである。「騒ぐ人」と「騒がない人」とは、実は表裏一体だなとわかる。瓜二つだなとわかる。
 なぜなら「法人」ばかりが騷いで「個人」が騒がないからである。「他人」ばかりが騷いで「当人」が騒がないからである。
 激動する世界と誰もが言うが、泰山鳴動して何とやらと古人は言っている。この新年に期待したい。 

(『JANICnews』No15、1993年1月10日)