本物と偽物

 本物と偽物の区別が付きにくい時代だという。模造品が肩をいからせて歩くものだから、純正品は肩身の狭い思いをするという。料理学校の先生が鰹だしを味見させると、生徒は「本だしみたいですね」と味見するそうである。
 煎じ詰めれば、それは本物と偽物の区別が付かなくなったというより、利便主義という大義名分や多機能内蔵という誇大広告の中に、先人が培い育んできた文化や伝統が埋没しつつある証拠ではないか。さもなければその前兆ではないかと言ったら、回転寿司のイクラを食べて舌鼓を打っているご同輩の喉を詰まらせはしないかと余計な心配なのである。
 偽物に慣らされた私たちは、風流を失い、味覚を失い、職人を失った。ことばを失い、ゆとりを失い、ご近所を失った。他にももっとたくさん失っただろう。それと引き換えにきっと多くを得ただろう。それが一体何であるかを知りつ忘れて、今世紀もあと10年となった。
 本来、社会の傍流に次代の源流を見い出すのは若者の役割であり、また特権でもあると息巻いたら、若者はペロリと舌を出すだろうか。大人は鼻で笑うだろうか。源流には本物特有の味と匂いがするものだが、出された舌の先をよく見れば、笑った鼻の穴を覗き込めば、そこに通う神経はどちらもお疲れでお気の毒なのである。
 源流を感じ取る五感を大人は伝えなくなって、若者は磨かなくなって久しい。もっと久しくなれば、本物と偽物はますます渾然一体となって、若者と大人はいよいよ表裏一体となるのではないか。
 本物が姿を消しつつある中、源流を感じ取る五感が今求められている。台所から鰹節を削る音が消えても、だしの味を取り違えてはやはりいけないのではないか。これだけのことを言うために、料理学校の先生と生徒以下を引用させていただいた。

(『JANICnews』No.9、1991年6月15日)