〔コラム〕漢詩の絶句の形式と構成

 中学や高校の国語の時間に漢詩の授業があったことを覚えているでしょうか。五言絶句とか五言律詩を学んだはずです。たとえば、前者であれば「春眠不覚暁:春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず」で始まる孟浩然の「春暁」、後者であれば「国破山河在:国破れて山河あり」で始まる杜甫の「春望」などが記憶に残っていないでしょうか。

 こうした漢詩には「形式」があります。四行詩を「絶句」、八行詩を「律詩」といい、それぞれ一句(一行)が五語のものと七語のものがあります。五語の絶句は五言絶句、七語の律詩は七言律詩というわけです。

 このような五語と七語、あるいは四句(四行)とか八句(八行)というのが、「漢詩の形式」となります。そして、五言絶句を例に取れば、「春暁」は次のような「構成」になっていて、一句目を「起句」、二句目を「承句」、三句目を「転句」、そして4句目を「結句」といいます。

   起句 春眠不覚暁 春眠暁を覚えず
   承句 処処聞啼鳥 処処啼鳥を聞く
   転句 夜来風雨声 夜来風雨の声
   結句 花落知多少 花落つること知る多少

 「起句」は「うたい起こし」で、詩の主題(ここでは「春暁」)を提示します。「承句」では主題を受けて展開し、「転句」で視点や場面を転換し、「結句」で詩全体を収束させるという「構成」となっています。

 この五言絶句の例のように、漢詩の基本的な構成要件である「起承転結」は、日本語の文章を書くときの“お手本”として指導されてきました。たとえば、小学校の国語の時間に作文を書くときもそのように指導されてきたはずですし、昔の話で恐縮ですが、学生時代に「論文やレポートは『起承転結』が大事だ」という指導を私も受けたことがあります。子どもの頃からそのように指導されてきた日本人の多くが、なにかまとまった文章を書くときにこの「起承転結」を思い出すのではないでしょうか。そして、大学の論文やレポートを指導する教員の中にも、「起承転結」を強調する教員が少なからずいるようです。

 いずれにせよ、上記の通り、「起承転結」という構成は、もともとは漢詩の世界での約束事でした。それが今日では小説や物語、映画や演劇、スピーチやプレゼンテーションなど、さまざまな分野で応用されています。いずれにおいてもストーリー(話のスジ)を展開していく上で、起承転結という構成は、読み手や聴き手の注意や関心を引きつけたり、感動や共感を呼んだりするための文章表現や修辞法として優れているからなのでしょう。

 しかし、「論文」とは客観的かつ論理的な文章であり、文学的に優れた文章や修辞的に巧みな表現が評価されることはありません。とくに「起承転結」の「転句」では、読み手の意表を突くような場面や視点の転換が行われ、その優劣が評価されますが、これは論旨の飛躍とも言え、けっして論理的な構成とは言えません。「論文」を執筆するとは、あくまでも客観的で信頼できる根拠やデータに基づいて、未知の事実や真実を論理的に実証的に明らかにしていこうという取り組みなので、非論理的な構成や叙情的な修辞法を含む「起承転結」の文章構成は「論文」には馴染まないのです。