あの騒ぎはどこへやら(1)

 あの湾岸戦争から1年が経って、桜の花がまた散った。あれだけ騒いで騒がれたことだから、今度こそは“あの騒ぎはどこへやら”と言ってやろうとしたが、やっぱり言葉にならなかった。
 重油まみれの海鳥とクルド人の裸足の子どもたちの姿が見えた。もちろん“日本人ボランティア”と呼ばれた人々と彼ら彼女らを支えた人々の勇姿も見えたし、民間チャーター機の輝く翼も確かに見えた。しかし、テレビ画面の前にいた私たちの多くにとって、それは「見た」のではなく、ただ「見えた」にすぎなかった。
 例の90億ドルの問題も、国会から居酒屋にいたるまで、口角泡を飛ばした賛否両論が入り乱れたところまでは覚えていても、結局、誰にツケが回ってきたのか覚えている人は少ない。90億ドルに賛成した人も反対した人も、いつも鏡を持ち歩いているわけでもないから、実は90億ドルと赤い糸で結ばれていたとは、なかなか気がつかない。
 自衛隊機や掃海艇の派遣をめぐる一連の議論もあった。あれを端緒に国際社会への日本の人的貢献策が急浮上したものの、行き場を失ったその姿は貧弱で可哀想である。そう簡単には飛び出せないはずなのに、飛び出すことばかりに夢中で、武器も持たずに国境を越えていく名もない人たちが既にいることは、視野にも入らなければ、相手にもされない。
 結局、誰も騒がなかったのではないか。騒いだと強がっても、実は空騒ぎだったのではないか。国会のPKO法案の強行採決という大騒ぎを見て、「大騒ぎ」した人は実に少ないからである。(次号に続く)

(『JANICnews』No11、1992年4月25日)