大往生

 永六輔氏の『大往生』(岩波新書)が静かな大ブームだそうである。
 21世紀を間近に迎えた“飽食ニッポン”の中にあって、人々は「死」について、あるいは、自分の人生の晩年について、一抹の不安をやはり隠し切れないのであろう。
 高齢化社会の到来をも目前にして、日本の医療制度や福祉政策にまつわる論議が難渋を極めている。その理由の1つには、私たちひとりひとりが、実は「生亅や「死」について、無関心でなければ無理解であるということあるように思う。
 私たち日本人は平均余命が世界一の水準にあることに驚喜し、最貧国と呼ばれる国々のそれが50歳をも下回ることに驚嘆する。しかし、「長生きすることが幸せ」なのだろうか?高度な医療機器に取り囲まれ、高価な抗生物質に蝕まれながら、真っ白で冷たい病室の中で、最期を迎えることが幸せだとは誰もが思うまい。
 日本がまだ貧しかったと言われた時代、「命」は家庭の中で生まれ、家庭の中で尽きた。それによって、「生」と「死」の持つ神秘と現実がもっとも直截に次の世代に語り継がれていたのであろう。
 しかし、現代人の「命」は病院で生まれ、病院で尽きる。「命」の誕生と終焉が家庭から消え去った今日、「生」と「死」は観念となり抽象となった。大人たちは子どもたちにもっとも大切なものを伝える術と瞬間を失った。
 本当は「幸せに生きる」幸せよりも「幸せに死ぬ」幸せの方が幸せなのであろう。しかし、「不幸せに死ぬ」不幸せにあふれた世界にあっては、せめて「幸せに生きる」幸せの方が、やはり優先されてしまうのであろう。いや、たとえ「不幸せに生きる」ことを余儀なくされても、「幸せに死ぬ」ことさえ最期にてきれば、少なくとも「幸せに死ぬ」ことのできない今の多くの日本人よりも、実は「幸せ」なのかも知れない。
 私事ながら、この1ヶ月ばかりの間に母方の祖父と大叔父が他界した。祖父は享年94歳、大叔父は享年86歳。ここ何年かは都会の喧噪を言い訳にして、年頭の挨拶にも出向けなかったことが、今となれば口惜しい。
 ただ、委曲は尽くせないが、祖父と大叔父の最期は、誰にも勝るとも劣らない「大往生」であったことだけは後に伝えていきたいと思う。

(『JANICnews』No.24、1994年10月31日)

参考:永六輔『大往生』岩波新書、1994年。