電池

 最近の電池は長持ちである。超小型軽量でありながら、3年や5年の寿命があって感心である。しかし、電池の性能が向上した分、私たちの被害も拡大した。電池の寿命が4時間とか8時間であれば、1週間や1ヶ月であれば、こちらも用心できる。しかし、3年や5年も用心するのは、厄介の元でなければ至難の技である。絶対に寝坊できない大切な待ち合わせがあって、目覚ましを明朝7時にセットした時に限って、電池は夜明けを待たずして事切れるのである。待ちに待った国内外の旅行に出かけて、この一瞬をカメラにおさめたいという時に限って、カメラの電池はその気も知らずに事切れるのである。
 これら最悪の事態は、誰もが経験するところであり、こうした経験則の集大成は「マーフィーの法則」として、いま世間を席捲して、庶民の称賛を得ている。「失敗する可能性のあるものは失敗する」という一節で始まる痛烈な皮肉と日常の風刺に満ちたこの警句集。この中に「電池の寿命は忘れたころに切れる」といった公理や「電池が切れた時の精神的被害は甚大である」といった定理が見られないのは、きっと偶然でなければたぶん禁句なのであろう。
 さて、働き盛りの企業戦士が、ある日上司に「休暇でも取って充電したらどうだ」と言われることがあるという。同僚に「しばらく充電してくる」と言ったきり、失綜することがあるという。こんな会話から、なに人間様も電池なのだなと、それも充電式の電池なのだなと分かる。だから、複雑怪奇な日本社会の中で、自分が過放電の状態にあることに自他ともども気が付かなければ、人間とは言えある日突然に事切れるのである。だから、「充電」ということは、決して馬鹿にできないことだと、断じて粗末にできないことだと、自他はもっと素直に認めてはどうか。だとすれば、充電式電池にもいろいろなタイプがあるように、人それぞれにも自由自在な充電方法がある方が健康でなければ健全である。
 冒頭、最近の電池は長持ちであると書いた。しかし、電池の寿命は忘れたころに切れ、切れた時の精神的被害は自他ともに甚大であることをお忘れなく。
 毎日ご活躍の関係各位、ご自分の充電時期をお見逃しないようご自愛いただければ幸いである。
 以上、初夏を迎えてのちょっと気の早い暑中お見舞いまで。

(『JANICnews』No.22、1994年6月30日)